遺跡 ⑦ 玉島古墳(詳細解説)

南楢崎の玉島古墳について、下記目次に沿って少し詳しく解説します。

玉島古墳(背景は潮見山)

目次

1節 遺跡の位置と全体配置
 (1)位置と他の遺跡との位置関係
 (2)関係する事業と調査報告書

2節 報告書の中の考察

3節 補足:宮下

4節 写真集

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玉島古墳

1節 遺跡の位置と全体配置

(1)位置と他の遺跡との位置関係図1 橘南部の古墳分布

 玉島古墳は、武雄市橘町大字大日(南楢崎区)にあります。三方は水田に囲まれており、県道武雄・鹿島線の北側になります。玉島古墳(0517)の周囲には、南側には上野古墳群(0512)、北の潮見山の麓には潮見古墳(0333)や潮見古墳群、東の杵島山山麓には権現山古墳群(0383)など、たくさんの古墳に囲まれています。玉島古墳の周辺にある古墳分布図を参照ください
図1 武雄市古墳遺跡図:黄緑着色部分)

 ①「玉島古墳」 (木下之治) 
   武雄市教育委員会(1973)

(2)関係する事業と調査報告書

 玉島古墳は、神籠石との関連を調べるために発掘調査されました。調査後は、原形に復して古墳公園として保存し、一般に公開することとなりました。調査は、県立博物館学芸課長 木下之治氏です。

 調査報告

  1. 所在地、地理的立地等は割愛

  2. 古墳概観
    図2 玉島墳丘断面イメージ図 この古墳は、昭和45年の発掘調査で南北の径48m、東西の径42m、高さ9mの規模で、県下でも最大級の円墳であることが確認されました。
    図2玉島墳丘断面イメージ図参照
    • 標高288mの虚空蔵山の西北麓の丘尾が平地に没する先端部の小段丘を修飾加工。
    • 円墳の大きさは、県内ではほとんど他に類例を見ない大円墳
    • 立地条件も県内ではほとんど例を見ないもので、3方を水田に囲まれ、西側のみが低い段丘となって丘陵に接しているので、低段丘の部分が一見前方部に見える。
    • 周囲の水田は、牟田と呼ばれる深田と言われており、低丘陵に接する西側の下層は、黒褐色を呈する泥炭状の深い地層となっている。周壕の可能性がある。
    • 墳丘及び墳丘周囲の地層中から相当多くの土師器片が出土。これらは同一時代のもので、墳丘周囲に混入していた土器片とともに墳丘上に運ばれた可能性が考えられる。
    • 風土の大半は自然の地山で、人工的に盛土されている部分は、墳頂から2段目まで。
    • 封土上には葺石が設けられていた痕跡をとどめており、円筒埴輪や象形埴輪の破片が出土。(少数)
  3. 石室図3 玉島古墳石室イメージ
    横穴式だが奥行0.9m。初期段階のもの。石室観察は計測記録とともに詳しい。
    図3玉島古墳石室イメージ図参照

    石室について武雄市の文化財「玉島古墳」より抜粋いたします。

    ここから———————————
     遺体を安置する石室は、竪穴系横口式石室とよばれ、竪穴式石室から横穴式石室に移行する時代のもので、羨道部が未発達なところが特徴です。
     石室は南西方向に開口するもので、両袖単室であり、玄室の平面形は奥がやや広くなった羽子板形をしています。玄室は規模が、長さ3.25m、奥壁側の幅2.1m、玄門側の幅1.43mで、側壁には大きな腰石の上に扁平な石を小口積みしています。
     奥壁に平行して遺体を安置する屍床が設けられており、玄室へ通じる羨道は短く、長さ0.9mにすぎません。
     床面は玄室の方が羨道部より0.53m低くなっています。
    ここまで———————————

  4. 出土遺物
    • 盗掘済(相当古い時代)
    • 床面から40cmに重葬者。重層に伴う副葬品は中世
    • 第1期の副葬品
      • 鏡(縫製変形紋鏡1 径7.3cm)
      • 有孔斧形石製品1
      • 碧玉製管玉2
      • ガラス製小玉8
      • 釧型鉄製品1
      • 鉄刀1
      • 鉄刀子3
      • 鉄鉾1
      • 鉄鏃33
      • 短甲片3cmの破片が多数
      • 槍鉋8
      • 不明鉄器
    • 重層に伴うもの
      • 土師器系土器3
      • 硬貨12
        開元通宝 照寧元宝、等
        永楽通宝がないので鎌倉から室町前期まで
    • 封土から
      • 埴輪片5個体分
      • 石器
        • 石槨3(サヌカイド2、黒曜石1)
        • 黒曜石剥離片1
        • 黒曜石ブレイド1
        • 黒曜石剝離片32
        • 土師器系土器片1426(大部分は古墳時代)
図4 玉島副葬品

図4 玉島副葬品

   (図4玉島副葬品参照

2節 報告書の中の考察

  • 横穴式石室墳の初現的なものとして注目される
  • 土師器片が5世紀後半まで遡るか疑問の余地があり、副葬品の管玉はきわめて古い形式である反面、鏡が小型で文様が崩れているうえに相当手慣れの跡をとどめている点から、6世紀初頭と推定する。
  • 杵島山を中心として杵島郡・武雄市地方に分布している古墳の中では、築成年代が最も古い
  • 弥生時代には杵島山の東北麓、北方町椛島山を中心とする一帯が杵島地方の政治・文化の中心であったことが、弥生時代遺跡や遺物から推定される。
  • 弥生時代における武雄盆地は杵島文化圏の中心から離れた周辺部に位置していた
  • 武雄盆地は弥生時代には恐らく盆地の大半は沼沢状を呈していたと考えられる。
  • 武雄盆地に水田が開かれたのは、弥生時代にさかのぼることは言うまでもないが、水害を防ぐに便利な山麓地帯の一部分が開発されて、いくらかの小集落が形成されていたことは、弥生時代の遺跡の分布から推定される。
  • しかし杵島地方の政治・文化の中心地は弥生時代から古墳時代、さらに歴史時代に入ってもなお杵島山の東北圏に当たる北方町椛島山付近にあったことは、肥前風土記に「郡西に温泉ありて出づ。」と誌されていることによっても明らかである。
  • 要するに武雄盆地は。古墳時代に入ってもなお、杵島政治圏の周辺に位置する一つの文化圏としての地位に置かれていたことが推定される。

3節 補足:宮下

 玉島古墳が調査されたころは、まだ武雄盆地での発掘調査はほとんど手つかずのままでした。ですから論調は武雄盆地の弥生遺跡の少なさと杵島山麓での古墳群の多さがベースとなって組み立てられています。また、田地の開発は、農工具の発達と土木技術の開発に伴うとすることも述べられています。

 その後、潮見川流域では河川拡幅や圃場整備、高速道事業などに伴って、多くの調査が行われて武雄盆地の知見が飛躍的に増えました。また農工具は、小城の土生遺跡でもわかるように殆ど変化していないことも分かってきました。その結果、潮見山の麓でも「杵島政治圏の周辺に位置する小集落」ではないことが判ってきました。

4節 写真集

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㊽㊾ 南楢崎の古墳群と南楢崎遺跡

南楢崎の古墳群と南楢崎遺跡について、下記目次に沿って少し詳しく解説します。

図1 橘南部の古墳分布

図1 橘南部の古墳分布

  目次

1節 遺跡の位置と全体配置
(1)位置と他の遺跡との位置関係
(2)関係する事業と調査報告書
  ㊽-1 楢崎北遺遺跡 (0432)
  ㊽-2 薬師山古墳 (0381)
  ㊽-3 権現山古墳群 (0383)
  ㊽-3 南楢崎遺跡(0382)
  ㊾-1 南楢崎古墳(0433)
  ㊾-2 楢崎南遺跡(0518)
  ⑦   玉島古墳(0517)

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1節 遺跡の位置と全体配置

(1)位置と他の遺跡との位置関係

 南楢崎地区の古墳と遺跡は、図1 橘南部の古墳分布のように地区内に密集しており、遺跡名称も紛らわしくなっていますので、表1にリストを作成しました。
表1南楢崎区の遺跡一覧表  PDF

この地区の遺跡は7カ所あります。所在地は玉島古墳を除いていずれも橘町大字大日字楢崎になります。

  ㊽-1 楢崎北遺跡
  ㊽-2 薬師山古墳
  ㊽-3 権現山古墳群
  ㊽-3 南楢崎遺跡
  ㊾-1 南楢崎古墳
  ㊾-2 楢崎南遺跡(旧楢崎北遺跡)
  ⑦   玉島古墳

(2)関係する事業と調査報告書

 この一帯は、調査が殆どなされていません。古墳と遺跡が重なるように並んでいますので、北から順に解説します。

㊽-1 楢崎北遺跡(0432)

写真① 草場橋から薬師古墳方面

写真① 草場橋から薬師古墳方面

 養鶏場がある場所です。写真① 草場橋から薬師山古墳では、草場橋のつきあたりにドウザマ墓地と呼ばれる墓地があり、その南(写真では右)に、養鶏場のある楢崎北遺跡と薬師山古墳が写っています。 ここに関する資料を見つけることはできませんでした。

㊽-2 薬師山古墳(0381)
 『郷土誌 橘町史跡めぐり』の236pに薬師山の仏様について書かれています。「中腹に墓地がありその上にお堂が祀られている」と書かれていますが、それ以上の資料がありません。写真② 薬師山古墳南面写真③  薬師山古墳の薬師社を掲載します。

写真② 薬師山古墳南面

写真② 薬師山古墳南面

写真③ 薬師山古墳の薬師社

写真③ 薬師山古墳の薬師社

㊽-3 権現山古墳群(0383)
 同上の郷土誌237pに権現山の事が書かれています。「中腹に白山大権現が祀られている。境内の石檀上に石祠があり云々」とあり、今は個人で祀られているとのことです。山の西側部分(旧県道に面した部分)が南楢崎遺跡になります。写真④  天神橋から権現山古墳群と南楢崎遺跡を参照ください。写真奥の森の左半分が権現山古墳群、右半分が南楢崎遺跡になります。
 同じく232pに「権現山遺跡」の事が書かれています。「この山南部の民家裏から弥生甕棺が出土。県道拡幅時に甕棺墓2基と石棺墓1基が出土した(中山悟氏談)」「古墳群がありミカン園造成で殆どが破壊されたが、線刻模様があった」とも記載されています。

 佐賀県文化財13の報告に書かれた「南楢崎石棺遺跡」とされる遺跡は、記載内容から権現山古墳群のことと思われます。「杵島山の山麓、標高50m余りの台地にあって、里道によって生じた切通しの西側にある。縦1.85m、 横 30㎝~43㎝、深さ30㎝余りの箱式石棺。武雄市立橘小学校に移転し、復原して保存されている。箱式石棺で粘土床となっているが、一端に届平な枕石が設けられている。側壁が板石の二重囲いになっているという点に特色があり、その側石聞には粘土が充填してあった。また、石棺の半分に鉄丹が塗布されており、副葬品はなかった」と報告されています。

㊽-4 南楢崎遺跡(0382)
 同じく232pに「東県道の東側」と書かれているので、南楢崎遺跡のことになります。
これには「この山の赤褐色のローム層から黒曜石の剥片・石核など数点が出土している。この剥片痕検査から、この遺物は先土器時代後期のものか縄文時代初期(約1万年以上前)のものと推定されている(今、この遺物の所在は不明)」と書かれています。

㊾-1 南楢崎古墳(0433)
 現地は、民家が建っています(写真⑤ 南楢崎古墳参照)。資料を見つけることができませんでした。

写真⑤ 南楢崎古墳

写真⑤ 南楢崎古墳

㊾-2 楢崎南遺跡(旧楢崎北遺跡)(0518 )
 南楢崎と塩田を区画する尾根になります。中腹の写真を写真⑥  南楢崎遺跡として添付します。
湯か里代31号(1970)に國平健三氏が昭和43年(1968)に実施した南楢崎丘陵面の調査記録が掲載されています。これには「楢崎バス停の北方200mの所」「南楢崎地区の丘陵舌部の墓地」とありますので、「楢崎南遺跡」(遺跡名が紛らわしいのでご注意ください)だと思われます。
旧石器から縄文に関係する資料なので紹介しておきます。これには「採取品25点のうち、黒曜石製の剥片2点と石核1点を図入り(図2 湯か里31号南楢崎遺跡旧石器参照)で紹介されています。

写真⑥ 楢崎南遺跡

写真⑥ 楢崎南遺跡

図2 湯か里31号-1 南楢崎遺跡旧石器

図2 湯か里31号-1南楢崎遺跡旧石器

⑦ 玉島古墳
 別稿で解説します。

参照:南楢崎区に関係する遺跡一覧表(PDF)

 

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㊼ 草場遺跡(詳細解説)

草場遺跡について、下記目次に沿って少し詳しく解説します。

  目次

1節 草場遺跡の位置と全体配置
(1)位置と他の遺跡との位置関係
(2)関係する事業と調査報告書
(3)調査の経緯と遺構図

2節 検出遺構とその時期について
(1) 古墳

3節 出土遺物について
(1) 旧石器時代の遺物
(2)縄文時代の遺物
(3)時代言及がない遺物

4節 考察
(1) 草場遺跡の基本的性格
(2) 國平健三氏の考察
(3) 草場遺跡は旧石器時代から人々が暮らしやすい場所だった

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1節 草場遺跡の位置と全体配置

(1)位置と他の遺跡との位置関係

図1 おつぼ山周辺遺跡地図
図1 おつぼ山周辺遺跡地図

 草場遺跡は武雄市橘町大字大日字草場にあります(図1おつぼ山周辺遺跡地図参照)。写真① はおつぼ山神籠石の入り口にある草場橋から草場遺跡(北楢崎集落内)と後背地に広がる北楢崎古墳群を写したものです。草場遺跡は、おつぼ山神籠石の石材を取った立岩塊の下に広がる扇状地で、古代には、この近くまで海が入り込んでいたと考えられる場所です。

写真① 草場橋から草場遺跡(集落)と後背地の北楢崎古墳群
写真① 草場橋から草場遺跡(集落)と後背地の北楢崎古墳群

(2)関係する事業と調査報告書

 草場遺跡の調査には下記のものがあります。

  • 1次調査:國平健三氏による調査①(個人)
    昭和38年~42年にかけて、ミカン園造成によって出土した安山岩製
    石器や黒曜石製石器百数点を整理し、それらをまとめて投稿したもの
  • 2次調査:圃場整備事業に伴う確認調査②(武雄市教委)
  • 3次調査;宅地開発に伴う確認調査③(武雄市教委)

 また関連する史料にあげられるものは、武雄市史上巻(1972)があります。これを基に各種資料に旧石器時代の遺跡として記載されています。
 本レポートは、これらの経緯や近接するおつぼ山神籠石との関連を述べることとします。

① 『先史』6号 駒澤大学考古学研究会(1970)
② 『佐賀県基盤整備文化財調査9』佐賀県教育委員会(1991)
③ 『H3~11年度開発に伴う確認調査』H9 武雄市教育委員会(1997)

(3)調査の経緯と遺構図

 湯か里51号の草場遺跡の稿において、地元在住の「國平健三氏が草場遺跡を旧石器時代の遺跡として駒澤大学考古学研究会『先史』6号に投稿された」ことが紹介されています。
 そこで、この『先史』6号を調べてみますと、北楢崎地区では昭和38年から42年にかけてミカン園が開墾され、造成によって黄褐色ローム質層や赤褐色ローム質層から安山岩製石器や黒曜石製石器が百数点出土しました。これら表採遺物を國平健三氏が整理して「草場遺跡」と命名し、投稿したものでした。ですから武雄市史の草場遺跡に関する記事は、國平健三氏のレポートが基礎になっているものと考えられます。
 この投稿には遺構図に関係するものがありませんので、「遺跡と周辺の状況」の項から関係事項を抜粋し、箇条書きします。

  • 草場遺跡は橘町北楢崎88308番地に位置する丘陵面にある
  • 草場と呼称される丘陵地(長さ320m)が扇状に広がる
  • 地層や遺物の状況から扇状地を上部(A)標高23m、中間部(B)、舌部(C)標高10mの3段に分けられる
  • A部;20~30cmの腐植土の下に黄褐色ローム質層2m以上堆積
  • B部とC部;腐食土層の下に黄褐色ローム質層はなく、赤褐色ローム質層となる
  • 遺物は丘陵全域から出土
  • A部・B部・C部で、石器の形態・制作技法・材料が相違
  • 草場遺跡丘陵部とおつぼ山間には沖積面が深く入り込み、ここから阿高式縄文土器片や石器類(剥片石器・掻器・細長石匙・石鏃・石核)、須恵器・土師器が出土④
  • 近隣の旧石器遺跡として鬼の鼻山遺跡(安山岩石材)、多久三年山
  • 茶園原遺跡、南志田遺跡(黒曜石石材)中野遺跡・柏岳を掲載 
図2 盤棺墓周辺地形図
図2 盤棺墓周辺地形図

 2次調査は圃場整備にう調査です。報告書54pには「おつば山神籠石間連の遺構(水門等)の遺存も考えられるため、70箇所の試掘溝を設定したが、1筒所で小穴を確認し、1箇所から瓦片、染付片を検出したに留まった」と書かれています。おつぼ山神籠石南側が調査されたはずですが、試掘調査の範囲データがありません。草場遺跡を含む可能性があるので紹介しておきます。3次調査は宅地 開発に伴う調査(図2盤棺墓周辺地形図参照)です。
 これらの関係を図に示すには1次と2次の調査範囲が不明ですので位置関係を明らかにすることができません。そこで国土地理院の地形図に北楢崎地区の遺跡拡大図(図3)を重ね。圃場整備・各遺跡の関係を示した 図4 北楢崎の圃場整備 を作成しました。3次調査の場所は、正確には北楢崎古墳群の範囲と思われますが、この地域は旧石器時代の遺跡と古墳群が一体として重なっていますので草場遺跡として取り扱われたのかもしれません。

図3 おつぼ山周辺遺跡地図拡大図
図3 おつぼ山周辺遺跡地図拡大図
図4 北楢崎の圃場整備
図4 北楢崎の圃場整備

2節 検出遺構とその時期について

 2節・3節では主要部分を箇条書きします

(1) 古墳

写真② 草場遺跡盤棺墓
写真② 草場遺跡盤棺墓
  • 1次調査で「周囲に北楢崎古墳が存在する」「旧石器時代や縄文時代・弥生時代・古墳時代の遺跡が多く存在する」と記載
  • C部で半壊の古墳1基(この古墳からも石器を表採)
  • 3次で幼児用盤棺墓(岩盤をくりぬいて造られた墓)1基(写真②草場遺跡盤棺墓参照)副葬品なし(古墳時代5世紀前半頃)
  • 周辺試掘溝でもほかの遺構検出はなし

3節 出土遺物について

(1) 旧石器時代の遺物

  • A部
    最下層に安山岩製握槌状石器・スクレーバー類(図5 A部の旧 石器①)次にブレード(図6 A部の旧石器②N08)ドリル(図6A部の旧石器②N09)を含む層がその上に、さらにその上に縄文土器(図7 A部の旧石器③N080~89)が来ると想定している
  • B部
    フレーク・ドリル等はブレード技法によるもので他の石器の製作技法が異なる。黒曜石製石器しか出土しない。(図8B部の旧石器
  • C部
    材料は古境石と安山岩。制作技法はB部と同じものがある。石器が小型し、石器組成が多様化している(図9 C部の旧石器
図5 A部の旧石器①
図5 A部の旧石器①
図6 A部の旧石器②
図6 A部の旧石器②
図7 A部の旧石器③
図7 A部の旧石器③
図8 B部の旧石器
図8 B部の旧石器
図9 C部の旧石器
図9 C部の旧石器

(2)縄文時代の遺物

  • A部:第1次剥離面が新しいので7番コアや80以降の石器類(図7
  • B部:特に記載なし
  • C部:石匙や石鏃、サイドスクレーバー(図9 N051

(3)時代言及がない遺物

  • 土錘3点 須恵器片(杯)

4節 考察

(1) 草場遺跡の基本的性格

 草場遺跡は旧石器時代から人々が生活した場所です。

(2) 國平健三氏の考察

  • 旧石器の製作技法の分析から、草場丘陵に3段階の石器分布が考えられ、標高の高いA部が最も古く、表層に近い所が縄文期の石器、旧石器時代の石器を2段階に分けて想定されています。
  • 丘陵舌部(C部)が比較的新しい時代と想定。石器も小型化多様化していると考えられています。
  • 石器の材料(安山岩と黒曜石)は外部から持ち込まれたものと考えられ、安山岩は鬼の鼻山産、黒曜石は柏岳を想定。また、出土石器に認められる擦痕は人為的な石器の使用によるものとも想定されています。
  • ただし、出土物が表採の物なので、上記想定は制作技法に頼ったものであり、今後層位的な調査と分析が必要ともされています。

(3) 草場遺跡は旧石器時代から人々が暮らしやすい場所だった

 北楢崎・南楢崎・上野・潮見地区は、古代の海岸線に面した場所で、古代潮見川の河口があった場所になります。旧石器時代から人々はこの地域で暮らしていた場所ですので、圃場整備事業で遺構や遺物の検出が少なかったことは残念でした。
 「ドウザマ墓地」と呼ばれる墓地のある尾根から北楢崎集落がある範囲は、旧石器時代から古墳時代までの遺跡の宝庫だと考えられます。宅地開発が進んでいますが、開発にあたっては確実な調査がなされることを期待します。

 

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㊹ おつぼ山神籠石(詳細解説)

おつぼ山神籠石について、下記目次に沿って少し詳しく解説します。

目次

1節 遺跡の位置と全体配置
(1)位置と他の遺跡との位置関係
(2)関係する事業と調査報告書
(3)調査区遺構図

2節 検出遺構とその時期について
(1)全体が古代山城(飛鳥時代)

3節 出土遺構・遺物について
(1)縄文時代の遺構・遺物
(2)弥生~古墳時代の遺構・遺物
(3)平安時代の遺構:遺物
(4)中世の遺構・遺物
(5)近代の遺構・遺物

4節 考察
(1) おつぼ山神籠石の設置目的
(2) おつぼ山と古代官道と古代潮見川
(3) おつぼ山の西側列石はどこに行った?
(4)杵島郡団はどこにあった?

5節 おつぼ山神籠石のまとめ
(1)遺跡の性格と時代
(2)遺構・遺物の中で特徴的なもの
(3)考察・その他

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1節 遺跡の位置と全体配置

(1)位置と他の遺跡との位置関係

 遺跡は佐賀県武雄市橘町大字大日字浦田・草場にあります。図1おつぼ山周辺の遺跡 を参照ください。
おつぼ山は、神籠石のほかに、北にある橘小学校校庭遺跡から南のおつぼ山南麓遺跡まで8つの遺跡が包含された複合遺跡になっています。それらは 図1 おつぼ山周辺の遺跡 に赤枠で囲んでいます。

図1 おつぼ山周辺の遺跡
図1 おつぼ山周辺の遺跡

(2)関係する事業と調査報告書

 昭和37年に全国で8番目の神籠石として発見され翌38年に調査、朝鮮式の山城であることが確認されました。神域説と山城説で論争をしていた神籠石の性格に終止符を打った遺跡として学史に名を残す遺跡です。

  • 1次調査:おつぼ山神籠石:佐賀県武雄市史蹟調査報告(武雄市)(1965)
  • 2次調査:保存管理計画に基づく確認調査(1979)
  • 3次調査:同上に基づき第1水門調査 佐賀県文化財年報14(2018)PDF p41

(3)調査区遺構図

 この遺跡については、1次調査段階で列石の調査が完了し、2次調査でトレンチを9カ所設定(途中、六角川改修に伴う調査を先行させるため中止)、3次はおつぼ山神籠石第一水門・南門周辺において階段・看板・木製園路設置予定箇所及び遊歩道整備対象箇所を中心に、重機と人力で試掘を実施されたものです。武雄市育委員会において遺跡全体の平面図と保存整備計画図が作成されていますので 図2 おつぼ山神籠石平面図図3 おつぼ山神籠石整備計画図 を添付します。

図2 おつぼ山神籠石平面図

図2 おつぼ山神籠石平面図

図3 おつぼ山神籠石整備計画図

図3 おつぼ山神籠石整備計画図

 

2節 検出遺構とその時期について

(1)全体が古代山城(飛鳥時代)

図4 版築工事イラスト

 全体が複合遺跡になっていますが、最初に神籠石について紹介します。神籠石は、版築(図4 版築工事イラスト参照)と呼ばれる工法で造った土塁が山城を取り囲み、土塁の基礎には列石があります。また、南と東に門跡が、南と西に水門が見つかっています。以下に市のホームページの解説を抜粋転記します。

ここから——————

「神籠石は昭和37年に全国で8番目の神籠石として発見され翌38年に調査、朝鮮式の山城であることが確認された。神域説と山城説で論争をしていた神籠石の性格に終止符を打った遺跡として学史に名を残す。列石の総延長は1866m、列石高70cm、厚さ40cm残石の数は1313個。列石前面に3m間隔で柱穴があり、土塁を築くための板を押さえた柱の穴または防御柵と考えられている。第一水門前からは柱根3本が出土。列石材は凝灰角礫岩で近くの立岩付近がその原石の採集加工地とみられている。」

ここまで——————

 おつぼ山に近い立岩付近がその原石の採集加工地とみられています。列石上には幅9mの土塁があり、谷間には水門が設けられ、門跡も2箇所確認されています。築造の時期については異論があるものの、7世紀後半の白村江の戦い(663年)に関連させる説が有力です。近年の研究成果では、大野城や基肄城などの古代山城や百済の山城を参考に造られたことが推測されています。

主要な部分の詳細は、以下の現地説明板・サイトをご覧ください。

① 南門と第1水門・・・図5「南門・第1水門」 図6「第1水門見どころ」解説図
② 列石と東門 ・・・図7「列石・東門」 図8「東門の見どころ」解説図
③ 第1土塁 ・・・図9「第1土塁」解説図
④ 第2水門 ・・・写真① 第2水門
文化遺産オンライン・・・おつぼ山神籠石出土柱根

* 図5~9については後日掲載します

写真① 第2水門

写真① 第2水門

3節 出土遺構・遺物について

 前述のようにおつぼ山は複合遺跡になっておりますので、夫々の解説は別稿で説明していますが、簡単に時代順に説明しておきます。

(1)縄文時代の遺構・遺物

 縄文中期遺物:第一水門前から縄文中期の阿高式土器が発見されました。ここはおつぼ山第一水門遺跡として登録されています。

(2)弥生~古墳時代の遺構・遺物

 1次調査の時石棺墓が2基見つかっており、それまで開口していた1基とあわせて3基になります。また南部で数個の弥生式蕗棺が露出していたのでおつぼ山南麓遺跡として登録されています。

(3)平安時代の遺構:遺物

 1次調査の時経筒が2個見つかっており、これらもそれぞれおつぼ山第1経塚遺跡おつぼ山第2経塚遺跡として登録されています。

(4)中世の遺構・遺物

 昭和12~3年頃、橘小学校校庭整備中に硯が見つかっており玉泉寺跡と想定されています。橘小学校校庭遺跡として登録されています。また、第1水門のトレンチ調査で、室町時代の寺跡の基壇と思われるのが見つかり、正覚寺跡と考えられます。

(5)近代の遺構・遺物

 窯跡が2カ所あります。小野原旧窯跡形右衛門窯跡として登録されています。

 

4節 考察

(1) おつぼ山神籠石の設置目的

 日本書紀に記録された基肄城や神籠石は、「古代山城」と呼ばれ、一般的には663年の白村江の戦いで大敗した日本が防衛のために築城したと考えられています。古代山城の中で神籠石と呼ばれてきたものについては、文献に記載がないこと、年代を示す遺物の出土も少なくその存続年代が明らかでないこと、築城場所の標高が雷山(雷山神籠石)のように高いものからおつぼ山のように低いものまであることなどから、未だ諸説があります。それら諸説には、築城目的が筑紫の君などの国内勢力への対抗の為に造られたというもの(磐井の乱は527年)や、築城時代が白村江の戦以後になるなどの説があります。

 おつぼ山神籠石は古代山城の中で最西端に位置し、しかも低平地際に建造されています。また、西側列石は欠落し、列石内部に倉庫棟の建築物が見つかっていないことから見世物としての築城説もあります。
 白村江の戦いは百済復興支援の戦いです。それまで友好国であった唐と百済の2者択一を迫られ、倭国は百済を選択したことになります。すると唐対策が必要になるわけで、古代山城の立地場所もこの線から考える必要があります。白雉4年(653年)・白雉5年(654年)と2年連続で遣唐使が派遣されたのは、唐の情報を知るためだったと思われます。

図10 北部九州における古代山城の位置

 北部九州の海外交易ルートは、魏志倭人伝の影響が強いせいか、弥生時代から玄海ルートが主に脚光を浴びてきました。しかし、弥生時代以前から九州西海岸の交易ルートがあります。また、有明海は遠浅のために海上交通に適していないように見られがちですが、ずっと後世の平安時代にさえ平清盛が神崎の荘を経て大宰府へ貿易品を運んでいました。 これらのことを考えると、新羅対策だけでなく唐対策の重要であり、有明海からの防衛が必要となります。

 古代山城を西の方から並べると、武雄市おつぼ山城、佐賀市帯隈山城、基山町基肄城、久留米市高良山城、みやま市女山城、菊池市鞠智城は、有明海を取り囲む防衛ラインとして必要な城であり、決して見世物ではなかったと考えます。(図10 北部九州における古代山城の位置
そして、おつぼ山は有明海の塩田・鹿島方面からの上陸対策の拠点として設置されたのではないでしょうか。

(2) おつぼ山と古代官道と古代潮見川

図11 縄文海進と弥生時代集落

図11 縄文海進と弥生時代集落

 有明海からの防衛対策を考えた場合、杵島山の東側、つまり海に面した側になぜ築城しなかったのかとの疑問がわきます。このことについては、古代官道のルートを考える必要があります。古代官道は、奈良時代になって整備されたルートとされますが、飛鳥時代に古代山城を築城したのですから、軍隊を動かすための道は必要だったはずです。奈良時代になって、突然新たに古代の国道が設置されたと考えるよりも、それ以前からベースとなる道があったと考える方が自然です。これまでも度々触れてきましたが、橘盆地は近世まで芦原と呼ばれる湿地帯が残っていた所です。

 縄文海進時の海岸線を 図11 縄文海進と弥生時代集落 に示しました。東川は、古代には潮見川が本流として流れていました。おつぼ山周辺を観察しますと、古代潮見川が海へ流れ込む場所は、小野原地区では陸側へ深く入り込んでいます。おつぼ山の西斜面は古代史思側が本流として流れ、第一水門にかけては時には浸水する場所であったと想像されます。ですから古代官道は、今の498号線よりも標高の高い場所に位置し、おつぼ山と杵島山との鞍部を通っていました。(図12 古代官道)おつぼ山城は、西側部分を古代潮見川に守られていた訳です。

図12 古代官道

図12 古代官道

 一方白石側はどうだったのでしょうか。白石町史を見ますと古代の海岸線が推定されており(図13 白石町史より奈良・平安時代の海岸推定線参照)、有明町竜王は、海岸が杵島山に接しています。ですから古代の国道を通せる場所ではなかったと考えます。古代官道は鳥栖~多久までも背振山系・天山などの山麓の高地を通っています。古代官道九州ルートは、八女周辺の豪族対策のため鳥栖から佐嘉・多久を経て橘から塩田を通り、更に大村へ出て島原から宇土半島へ渡るルートであったことは定説となっています。律令時代の多田郷(白石町に想定)は人が住める環境ではありましたが、弥生時代から田地の開発が進んでいた橘盆地よりも後発地域です。

図13 白石町史より奈良・平安時代の海岸推定線

 兵となるべき人はそれほど多くなかったのではないでしょうか。また、小城から杵島山の麓に道路を通す場合、大町以東ルートと北方ルートを比較してみましょう(図13 参照)。

 当時六角川周辺には潟地が広がっていた筈ですが、そこを渡る距離が短い方を選んだはずです。大町以東の六角川には、今でも有明湾岸の自動車専用道路に長大な橋がかけられています。古代官道は、これらの理由から多久を通り、北方から杵島山西側の丘陵地を通るルートが選定されたのだと考えます。

(3) おつぼ山の西側列石はどこに行った?

 図2 おつぼ山神籠石平面図 を見ますと、西側の列石は所々に一部残置されていますが、殆ど残っていません。おつぼ山の列石は、成富兵庫が江戸時代初期に潮見川を開発する際に列石を利用したと言われてきました。潮見川は、「橘町史跡めぐり」によると、成富兵庫以前に、橘氏が入部(1237年)後に潮見山から流れ出る小川をつないで東川の方へ流れていた川を潮見山裾の方へ変えたとされます。潮見川流域の発掘調査の結果、潮見山下遺跡では「南北に続く15mほどの列石(旧河川の列石=中世と想定)と砂質土を確認。トレンチでも深さ計測不能な深さの河川敷跡」が検出されました。しかし、残念ながら石材の分析までは行われていません。郷の木遺跡でも「現六角川の方に落ち込む旧河川敷」が見つかっており、それらを「潮見・郷の木遺跡」のところで紹介した所です注1。潮見川は、中世期に昭和60年頃の改修前の姿であったことが証明されました。

 橘町史跡めぐりでは、成富兵庫による江戸初期の改良は潮見川の拡幅、大日井關再興工事とそれに伴う沖永へ流れる道越川の開削と考えられています。持ち去った物が誰であるかを明らかにするには、これらの部分の石材調査が必要です。石材分析の結果、神籠石の石質と同じで、なおかつ形状や加工仕上げ等から神籠石を使用した可能性があるのであれば、場所によっては成富兵庫又は橘氏一族の仕業のいずれかが分るでしょう。石材の分析が必要なわけで、当分の間は謎のまま残りますね。現時点では、古代潮見川との関係から、もともと列石はなかった可能性も否定できません。

(4)杵島郡団はどこにあった?

 古代の山城があるので、肥前の国にあったとされる杵島郡団も橘盆地周辺に配置されたものと思われます。動石(ゆるぎ石)伝説から、鳴瀬や釈迦寺あたりにあったと予想されていますが、鳴瀬山の調査は行われていないので、物的な証拠がありません。

 

5節 おつぼ山神籠石のまとめ

(1)遺跡の性格と時代

遺跡は、古代山城

(2)遺構・遺物の中で特徴的なもの

  • 学術上、日本で初めて神籠石が山城であるとわかった列石及び土塁とその工法
  • 第1・第2水門
  • 南門・東門

(3)考察・その他

  • おつぼ山神籠石は、有明海ルートからの防衛施設と考える
  • 古代官道が杵島山西麓を通った理由と杵島郡団が鳴瀬周辺にあったとする理由・杵島山東麓は竜王崎で古代官道を通すことができなかった
    • 潟地を渡る距離を短くする必要があった
    • 多田(白石)側よりも橘盆地側の方が、田地開発が早かった
    • 軍隊を素早く移動させるには、古代官道とおつぼ山神籠石(古代山城)はセットだったので、2つが揃った場所に杵島郡団はあった。
  • おつぼ山神籠石の西側は古代潮見川が山裾を洗う場所であり、川に防衛された面もあった
  • 西側部分の列石がない理由については、潮見川の石質調査が必要である。現時点では、古代潮見川との関係から、もともと列石はなかった可能性も否定できない。
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史跡⑩ 動石(ゆるぎいし)

 地元で呼んでいる「片白かたしろカン山」。この山頂付近に消防用無線塔がふもとからも見えますが、そのすぐ近くにあります。管理用道路の終点から約50m下った所から山中に分け入ります。30mほど進んだ場所にお岩め岩が30cm程の距離で向き合い寄り添よりそうように立っています。

 このゆるぎ石振動しんどうすれば事変じへんおこると言い伝えられています。これは「貞観じょうがん18年(876年)に杵島きしまの軍団が振動しんどうしたので、隣兵りんぺい警護けいごさせた」との肥前ひぜん風土記ふどきの記事がもとになっているようです。

ゆるぎ石

下記 ▶豆知識 をクリックすると内容を表示します。

豆知識 肥前国風土記(ひぜんのくにふどき)

 奈良時代初期に編纂された肥前国(現在の佐賀県長崎県)の風土記である。現存する5つの風土記のうちの1つ。

 風土記は元明天皇和銅6年(713)諸国に命じてその国名、郡名、郷名、またその郡内に生産する銀銅、彩色、草木禽獣魚虫等の種類名称をくわしく記録し、又その地方の古老が昔から言いつぎ語りついできた古い伝承や変わった事蹟等を集め整理して、これをまとめた書冊にして奉れといっている。

Google AIによる概要 より

参照:肥前国風土記 現代語訳
参照:肥前国風土記 原本

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