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橘氏と潮見城跡・館跡

潮見城跡は橘町の西側に位置す潮見山にあります。 潮見山は標高約150mの独立峰で、二つの高地が連なっています。三面は傾斜が60度を越す急峻で、容易に登ることは出来ませんが、僅かに北側が緩やかとなっています。 

西から流れてきた潮見川は、山の南をまわって北へ流れていますが、堀の役目を果たしていたと考えられます。 

潮見城跡に祭られている八幡宮

山頂には東西20m、南北100mの平坦な部分があり、本丸と二の丸の存在が推定されています。付近には自然石の石垣や石段が残されています。また、山腹には2箇所の「畝状竪堀群」や200mを越す「二重の土塁」が確認できます。 館は潮見神社の中宮から約50m登った場所に約1500坪の平坦地があり、と呼ばれ橘 渋江氏の館跡と推定されています。今は、お茶畑になっています。規模の大きさや遺構の保存状況などから、中世の山城として県内でも貴重な城跡です。

舘跡

城の築造は明確な資料がないので断定できませんが、「橘姓渋江氏由来」によれば、「嘉禎三年(1237) 橘公業一族を引き連れ、長島荘下り潮見山に要塞を構居城す」 とあります。 また、応安四年(1371)の橘薩摩公世軍忠状には「潮見山において、初めて城郭を構え、合戦す・・」とあります。 

橘公業は嘉禎三年伊予国宇和郡より長島荘に総地頭として入部してきました。 三代目公村の時に、本人は渋江と改姓し、次男中村・三男牛島・四男中橋と改姓・分家しました。 長男の渋江家は潮見川の管理と長島荘の総地頭として潮見山の山麓に館を構え居住しました。 

十三代渋江公勢は一族を纏めて勢力が最大となり、潮見城から日鼓城(若木町参照)に移ります。大永七年(1527)には、毒殺の伝説があるように次男と共に急逝します。 公勢の死によって、武雄の後藤氏に攻められて渋江家は一旦滅びます。 

十五代公師は永禄二年(1559) 後藤氏の要請で一時潮見城に復帰しますが、翌年の永禄三年有馬氏に攻められ、潮見城は落城します。 公師は、後に大村氏を頼りました。 

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納手の氏神さん (天神社)

天神さんと境内の神様について 

1. 納手区の氏神さんは天神さんである。納手区の中央に天神さんの境内があり、立派なお堂や鳥居が立っている。鳥居は昭和のはじめ頃、納手区の皆さんの浄財で建立されたものである。お堂の中には祭神菅原道真公のお姿(座像)を刻んだ像(金箔も使ってある)がお祭りされており「梅鉢」の紋のついた暮も奉納され又村人の手で供花、献燈も続けられている。 

  • 天神さんの夏祭 (祇園)は7月25日で、区の人達の手 で浮立も奉納される。又12月21日には豊年感謝のお祭 りが、納手区の皆さんの手で行われている。
  • この部落の天神さんも川岸近くに祭られている。このこと や祭神については別項で述べる。 

2. 天神さんの境内には、猿田彦大神宮碑庚申塔大青面金剛碑等が建てられている。三つとも庚申講衆の寄進したものである。 

   註 鎌倉時代・江戸時代には村人全部で庚申待が行われた。 庚申待は、60日に1回廻ってくる。

庚申(かのえさる)の日のお祭で、その夜は村中が講宿に集まってお経を読誦したり、お話を聞いたり、懇談したり、夜を徹してお祭りをした。この講は今でも続けられている。 

しかし、一つの区に、庚申待に関する石造物が三つも建っているのは珍しいことで、この地区の人達の信仰心の厚さに感心した。(また潮見神社中宮の南にも納手区の人の寄進した自然石の大青面金剛碑が建っている) 

天神社境内の庚申塔群(写真) 

庚申待関係の石造物について 

  • 庚申塔碑・・・一番南側の碑は「庚申塔」と刻まれているだけで、外に文字は見当らない。三つの中で一番古いように思う。 
  • 大青面金剛碑・・・・円形の美しく刻んだ板碑が角柱の上に立っている。円形板碑には大青面金剛と刻まれており、下の角柱の側面には 

     開眼師感応院住持○○○○ 
     寛政七年○月吉日(註 一七九五年) 

と刻まれている    ○の文字は、石の風化が進み破損していて読み取れない。 

その他の石造物 

天神さんの境内には其の他に宝満神社碑・大学・島居寄付者記録興などがある。 

  • 宝満神社碑について 

宝満神社を別名で竈門神社とも呼ぶ。宝満山は太宰府付近にある山 八六九m) である。 神武天皇が建国を祈願して母、 玉依姫の御霊を宝満山の頂上に祀られたのが起源であると云う。今は宝満山の麓にある。 十一世紀の末には九州(九国二島)の総鎮守社とされ、また平安中期以降は山伏の修験道場ができて栄えた。 
この宝満神社を御霊を勧請して祭られたもので国家の繁栄と各家庭の平安を祈念されたものと思う。 
碑面には正面に宝満神社と刻み側面に明治九年八月六日、 当邑中とある。 

  • 大学碑 

元納手に住んでおられた光武峰吉氏は、お稲荷さんを信仰されたが、その信者一同の出金で建てられた私的な碑ということであった。個人的な碑を公共の神社境内に建てることについては、いろいろ問題もあったようであるが、「すみの方ならよかろう」と云うことで建立を許可されたと云う。 
(松尾清氏談) 「稲荷信仰と大学碑の関係また大学碑はどんな意味で建てられたかはわからない。」 
と云うことであった。碑には寄進者の方達の氏名が刻んであるが、武雄、 花島、須古、佐世保、 浜遠方の方の名もあった。(光武峰吉氏の子孫は今納手にはおられない。) 

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大日ぜきから中橋(片白)間の江湖(エゴ)沿岸の遺跡

「郷土誌 橘町史跡めぐり」より

六角側でも、大日ぜきから片白中橋までの江湖は上流の潮見川と共に人造の河川である。 

武雄鍋島家の古文書の中に三法潟郷 (旧橘町の名)の地図があるが、その地図の上野から蛇神川を通り東川となって中橋で合流する川に古河と書いてある。 東川が古河潮見から納手大日を通る川は新川である。 昔なかった所に潅漑河川として潮見川を掘り、その下流に洪水の時の水害を防ぐ放水路や、舟運に利用するため、人工の河川を作った。 これが時代と共に改良拡幅され、現在の江湖になったと思われる。 

東川は自然にできた川である。今、国土地理院発行の地図を調べると北楢崎入口の「塚口」が海抜6.3m、納手と永島の中央が5.5m、片白の中橋の西の畑が6.9mである。 潮見川や大納川、大日せき、中橋間の江湖は高い所を通っていることになる。自然の川は絶対に高い所には流れない。水は低い所に流れることを考えれば潮見川や大日ぜきから中橋までの江湖は人工河川であることは間違いない。 

橘が洪水で浸水した時、橘町中央部以北、特に納手、永島間や城口、南片白、片白の田原は海のようになっていたのに、納手や大日ぜき〜中橋間は水没しなかった。 

歴代潮見城主の橘氏は潮見川を潅漑用河川とするため拡幅し、更に下流の大日ぜき~中橋間も開削拡幅して大水のための放水路や舟運のための河川として利用したと思われる。またこの河川の維持管理のためにも大きな努力が払われたようである。(この工事は、橘氏以前の為政者も力を入れた)特に潮見城主第二代公義は自分の子供四人の居館を大日ぜき〜中橋の江湖沿岸につくり各人にそれぞれ分担する業務をきめ四人の努力で下村(中世のころ橘町をこう呼んだ) 350町歩の経営がうまく行くようにした。 

生見石井樋󠄀・野越

昔の野越

昔の井手橋

大日井手、野越工事とその石材について 

  1. 寛永二年の成富兵庫茂安による潮見川拡幅及び大日井手再興工事では潮見川を拡幅して貯水量をふやし井手、野越と茂手の石井樋、 生見の石井樋をせきとめて、たまった水を潅漑用溝から水田へと流下式自然潅漑が出来るようにした。また、大雨の時は、井手(井堰) 野越の井手(井堰)と、二つの石井樋を開放し、放水するようにしたのである。
  2. 成富兵庫の潅漑治水工事は画期的なもので、この工事で橘町中央部以北の水田は稲作用水に恵まれる恩恵を受けた。又二又沖永鳴瀬に60町歩の開田ができ1200石の米が増収さた。
  3. 成富兵庫の潅漑治水工事は大工事で特に大日井手(井堰)野越(江湖への放水井堰)等では多くの大きな石材を必要とした。これにはおつぽ山神籠石の石材を使った。当時は神籠石については歴史的なことを知らず、小野原の鎮西八郎為朝をお祭りした「八郎さんの「石」と思っていた。そのため九月一日の八郎さんの祇園では大日井手組合から毎年燈明料を奉納するならわしであった。
  4. 昭和五十年代の洪水対策を中心とする治水工事では茂手石井槌を「大日堰」に改修し、洪水時には、「大日堰」を開放し、六角川江湖に放水して洪水の害を防ぐようにしたのである。また、これに伴って「大日堰」より二俣までの江湖の広幅改良も行われた。
  5. また、大日の井手については圃場整備工事の一環として旧井手の約20m下に新井手が完成し、近代的な手数のかからない井手 (井堰のこと)に改修された。 
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兵庫茂安の潮見川改修工事

「新・ふるさとの歴史散歩 武雄」より抜粋

成富兵庫は、豊臣秀吉の朝鮮出兵の時、鍋島直茂に従軍して、城を築などの土木工事の指揮をしました。江戸時代には、佐賀藩の各地に土木工事の功績を残しています。 橘町でも潮見川改修工事をして、水田耕作の面積を広くする功績をのこしました。 

この当時の橘は、三法方村と呼ばれ(三方潟、三法潟、三方方とも書かれている)、蓮池藩、武雄鍋島領、佐賀本藩の三者からの掟が適用されていたからでしょう。 成富兵庫は佐賀本藩の人であり、二俣、 鳴瀬、沖永への取水を目的として、潮見川の改修工事に取り組んだのです。これまでの川の幅を広くしたり、深くしたりして川自体を貯水池としました。 又、洪水時の対策として、野越や、堰を設けました。 この時、町北 一部の二俣 沖永、鳴瀬で60町歩が開かれました。 潮見川の上流にあった「二の関」や「内出し」は閉鎖されて、できるだけ貯水できるようにしました。 

成富兵庫は潮見の長泉寺を宿泊地として、七ヵ年という長期にわたる工事を寛永2(1625)に完成させました。 長泉寺には今も成富兵庫の位牌が祀られ、境内には供養塔も建っています。 また、二俣区では、毎年918日兵庫祭りを行い、感謝の心を表しています。 

大日堰東の観音堂にある灌漑・治水竣工碑

長泉寺境内入口に立つ供養塔

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菊池経直公の墓碑銘

「郷土誌 橘町史跡めぐり」より

「公は菊池第五代の主なり。鳥羽院の武者所に候して近衛に任じ、勢威四隣に振う。偶ゝ潮見社の笠懸神事に来りて此の地にて薨ず。夫人落飾し庵を結びて菩提を弔うという。爾来星霜八百歳墳墓煙滅に頻せんとす。図らずも嘱目、史伝を得たり。遺民即ち浄財を献じて域 (墓地)を買収し茲に再建す。 鳴呼先君の遺民と幽契永に尽きざるなり。」 

昭和39年6月1日 
菊池神社千種宣夫謹誌 

第五代城主 菊池経直公夫妻の墓

 

  • 菊池経直について
    鎌倉時代熊本県菊池郡一帯の領主 (菊池家第五代)、父は菊池氏第四代経宗、母は大納言宣家の娘である「肥前の守」と称し幼名七郎と呼ぶ従四位下を賜る。
    天永2年正月生(1111保安三年(1122武者所に伺候し、鳥羽天皇より鷹の羽を賜る。これにより「そろいたか」を家紋とす。文治26(1186)28日、肥前橘に笠懸神事に参加して死す (行年76才)墓は潮見にある。
    妻は平井中将の娘、経直の死により庵をつくって菩提を弔いこの地にて死す。 潮見に夫婦の墓がある。
    子供が二人あった。長男の隆直は菊池城第六代領主となる。二男は赤星十郎経俊と名乗る。文治2年は今より800年以上も前である(公業入国より以前のことである) 
  • 橘町の笠懸について
    このように潮見神社の笠懸が文治二年の段階で熊本からまで参加していたことを考えれば開始はもっと古いと思われる。
    (武雄神社の矢ぶさめの開始が文治二年である)
     
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