★ 歴史コーナー更新のお知らせ
■ 2026.03.17
●「まちの歴史シリーズ」更新
㉟ ~ ㊺号 が続々と発行されましたので掲載しました!
:
(この間、こちらの「歴史コーナー更新のお知らせ」の
更新をしそこなってました。ごめんなさい。)
:
2025.04.04
●「まちの歴史シリーズ」
㉜、㉝、㉞号 が発行されましたので掲載しました!
■ 2025.02.09
● 宮下正博さんの遺跡探訪 ver.2 2025.02.05大更新
2025.01.05
●「まちの歴史シリーズ」
㉙、㉚、㉛号 が発行されましたので掲載しました!
2024.10.01
●「まちの歴史シリーズ」
㉖、㉗、㉘号 が発行されましたので掲載しました!
2024.07.01
●「まちの歴史シリーズ」
㉕号 が発行されましたので掲載しました!
2024.06.01
●「まちの歴史シリーズ」
㉔号 が発行されましたので掲載しました!
2024.05.01
●「まちの歴史シリーズ」
㉓号 が発行されましたので掲載しました!
2024.04.04
●「まちの歴史シリーズ」
㉒号 が発行されましたので掲載しました!
■ 2024.02.25
● 歴史講座が開催されました。
「橘町の弥生時代」 資料と映像があります。
2022年末より掲載しております 「橘町の見どころ」のページ
●「まちの歴史シリーズ」
どんどん増刊されています!
《橘公民館報》令和8年3月号発行!
・ 2026.03.01 『橘公民館報03月号』
・ 2026.02.01 『橘公民館報02月号』
・ 2026.01.01 『橘公民館報01月号』
・ 2025.12.01 『橘公民館報12月号』
・ 2025.11.01 『橘公民館報11月号』
・ 2025.10.01 『橘公民館報10月号』
・ 2025.09.01 『橘公民館報09月号』
・ 2025.08.01 『橘公民館報08月号』
・ 2025.07.01 『橘公民館報07月号』
・ 2025.06.01 『橘公民館報06月号』
・ 2025.05.01 『橘公民館報05月号』
★ 2025.04.01 『橘町年間行事予定』
・ 2025.04.01 『橘公民館報04月号』
昨年度及び過去の館報はここをクリックしてください
———– 2024(R06) 年度 ——————-
● 2025.03.01 『橘町体育協会会報 第2号』
・ 2025.03.01 『橘公民館報03月号』
・ 2025.02.01 『橘公民館報02月号』
・ 2025.01.01 『橘公民館報01月号』
・ 2024.12.01 『橘公民館報12月号』
・ 2024.11.01 『橘公民館報11月号』
・ 2024.10.01 『橘公民館報10月号』
・ 2024.09.01 『橘公民館報09月号』
・ 2024.08.01 『橘公民館報08月号』
・ 2024.07.01 『橘公民館報07月号』
・ 2024.06.01 『橘公民館報06月号』
・ 2024.05.01 『橘公民館報05月号』
★ 2024.04.01 『橘町年間行事予定』
・ 2024.04.01 『橘公民館報04月号』
● 2024.03.01 『橘町体育協会会報 第1号』
————————–
これ以前の分は下記よりご覧ください!
橘氏と潮見城跡・館跡
潮見城跡は橘町の西側に位置す潮見山にあります。 潮見山は標高約150mの独立峰で、二つの高地が連なっています。三面は傾斜が60度を越す急峻で、容易に登ることは出来ませんが、僅かに北側が緩やかとなっています。
西から流れてきた潮見川は、山の南をまわって北へ流れていますが、堀の役目を果たしていたと考えられます。

潮見城跡に祭られている八幡宮
山頂には東西20m、南北100mの平坦な部分があり、本丸と二の丸の存在が推定されています。付近には自然石の石垣や石段が残されています。また、山腹には2箇所の「畝状竪堀群」や200mを越す「二重の土塁」が確認できます。 館は潮見神社の中宮から約50m登った場所に約1500坪の平坦地があり、館と呼ばれ橘 渋江氏の館跡と推定されています。今は、お茶畑になっています。規模の大きさや遺構の保存状況などから、中世の山城として県内でも貴重な城跡です。

舘跡
城の築造は明確な資料がないので断定できませんが、「橘姓渋江氏由来」によれば、「嘉禎三年(1237) 橘公業一族を引き連れ、長島荘下り潮見山に要塞を構居城す」 とあります。 また、応安四年(1371)の橘薩摩公世軍忠状には「潮見山において、初めて城郭を構え、合戦す・・」とあります。
橘公業は嘉禎三年伊予国宇和郡より長島荘に総地頭として入部してきました。 三代目公村の時に、本人は渋江と改姓し、次男中村・三男牛島・四男中橋と改姓・分家しました。 長男の渋江家は潮見川の管理と長島荘の総地頭として潮見山の山麓に館を構え居住しました。
十三代渋江公勢は一族を纏めて勢力が最大となり、潮見城から日鼓城(若木町参照)に移ります。大永七年(1527)には、毒殺の伝説があるように次男と共に急逝します。 公勢の死によって、武雄の後藤氏に攻められて渋江家は一旦滅びます。
十五代公師は永禄二年(1559) 後藤氏の要請で一時潮見城に復帰しますが、翌年の永禄三年有馬氏に攻められ、潮見城は落城します。 公師は、後に大村氏を頼りました。
納手の氏神さん (天神社)
納手の天神さんと境内の神様について
1. 納手区の氏神さんは天神さんである。納手区の中央に天神さんの境内があり、立派なお堂や鳥居が立っている。鳥居は昭和のはじめ頃、納手区の皆さんの浄財で建立されたものである。お堂の中には祭神菅原道真公のお姿(座像)を刻んだ像(金箔も使ってある)がお祭りされており「梅鉢」の紋のついた暮も奉納され又村人の手で供花、献燈も続けられている。
- 天神さんの夏祭 (祇園)は7月25日で、区の人達の手 で浮立も奉納される。又12月21日には豊年感謝のお祭 りが、納手区の皆さんの手で行われている。
- この部落の天神さんも川岸近くに祭られている。このこと や祭神については別項で述べる。
2. 天神さんの境内には、猿田彦大神宮碑、庚申塔、大青面金剛碑等が建てられている。三つとも庚申講衆の寄進したものである。
註 鎌倉時代・江戸時代には村人全部で庚申待が行われた。 庚申待は、60日に1回廻ってくる。
庚申(かのえさる)の日のお祭で、その夜は村中が講宿に集まってお経を読誦したり、お話を聞いたり、懇談したり、夜を徹してお祭りをした。この講は今でも続けられている。
しかし、一つの区に、庚申待に関する石造物が三つも建っているのは珍しいことで、この地区の人達の信仰心の厚さに感心した。(また潮見神社中宮の南にも納手区の人の寄進した自然石の大青面金剛碑が建っている)
天神社境内の庚申塔群(写真)
庚申待関係の石造物について
- 庚申塔碑・・・一番南側の碑は「庚申塔」と刻まれているだけで、外に文字は見当らない。三つの中で一番古いように思う。
- 大青面金剛碑・・・・円形の美しく刻んだ板碑が角柱の上に立っている。円形板碑には大青面金剛と刻まれており、下の角柱の側面には
開眼師感応院住持○○○○
寛政七年○月吉日(註 一七九五年)
と刻まれている ○の文字は、石の風化が進み破損していて読み取れない。
その他の石造物
天神さんの境内には其の他に宝満神社碑・大学・島居寄付者記録興などがある。
- 宝満神社碑について
宝満神社を別名で竈門神社とも呼ぶ。宝満山は太宰府付近にある山 八六九m) である。 神武天皇が建国を祈願して母、 玉依姫の御霊を宝満山の頂上に祀られたのが起源であると云う。今は宝満山の麓にある。 十一世紀の末には九州(九国二島)の総鎮守社とされ、また平安中期以降は山伏の修験道場ができて栄えた。
この宝満神社を御霊を勧請して祭られたもので国家の繁栄と各家庭の平安を祈念されたものと思う。
碑面には正面に宝満神社と刻み側面に明治九年八月六日、 当邑中とある。
- 大学碑
元納手に住んでおられた光武峰吉氏は、お稲荷さんを信仰されたが、その信者一同の出金で建てられた私的な碑ということであった。個人的な碑を公共の神社境内に建てることについては、いろいろ問題もあったようであるが、「すみの方ならよかろう」と云うことで建立を許可されたと云う。
(松尾清氏談) 「稲荷信仰と大学碑の関係また大学碑はどんな意味で建てられたかはわからない。」
と云うことであった。碑には寄進者の方達の氏名が刻んであるが、武雄、 花島、須古、佐世保、 浜遠方の方の名もあった。(光武峰吉氏の子孫は今納手にはおられない。)
