史跡⑨ おつぼ山南麓遺跡

 弥生やよい時代(今から2千年以上前)の甕棺かめかん石蓋いしふた石棺せっかんが見つかっています。「道路にあるため 露出している甕棺かめかんはほとんど破損しているが 須玖式すぐしきのもので、石蓋いしふた甕棺かめかんも存在していたことが知られる。この甕棺かめかん埋蔵まいぞう範囲はんいは明らかでない。」(佐賀県文化財13 p438)と書かれています。

 古代東川ひがしかわ潮見川しおみかわは、この一帯で合流ごうりゅうして大きな川となり、縄文じょうもん海進かいしんの頃には河口かこうであったと考えられます。当時の人々は、ここから東の山麓さんろく一帯に狩猟しゅりょうりょうをしながららしていたと考えられます。

参照:橘町の見どころ 歴史シリーズ ⑩
参照:橘町の見どころ 歴史シリーズ ⑪
参照:橘町の見どころ 歴史シリーズ ㉒

杵島山麓の小河川と縄文遺跡

杵島山麓の小河川と縄文遺跡

石蓋石棺墓の例(吉野ヶ里遺跡より)

石蓋石棺墓の例(吉野ヶ里遺跡より)

草場橋からおつぼ山南麓遺跡

草場橋からおつぼ山南麓遺跡

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豆知識 須玖式土器(すぐしきどき)

 須玖式土器は、弥生時代中期、特に北部九州に分布した、赤く磨き上げた丹塗磨研土器(にぬりまけんとき)を代表とする弥生土器の一種です。特徴は、文様をほとんど持たない洗練されたシンプルな形状と、美しい磨き上げられた表面にあります。この土器は、祭祀などの非日常の場で使われたと考えられています。

Google AIによる概要 より

豆知識 縄文海進(じょうもんかいしん)

 縄文海進とは、縄文時代に起こった、現在よりも海水面が高くなった現象です。約6000年前頃に最高潮を迎え、その時期には現在の海面より2~3m(有明海沿岸は最大約5m程度)ほど海水面が高かったと推定されています。この海水面の上昇により、本来の海岸線が内陸深くまで入り込み、広大な入り江や内湾が形成されました。

Google AIによる概要 より

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史跡⑧ おつぼ山第一水門遺跡

 旧石器時代きゅうせっき縄文時代じょうもんじだいにかけての遺跡です。石刀・ナイフ型石器・掻器そうきなどが見つかりました。また神籠石こうごいし第一水門の柱穴から高式たかしきという縄文土器じょうもんどきも見つかっています。

 高式たかしき土器とは、土器の表面に縄目なわめもんが残る土器です。隣接りんせつする草場遺跡くさばいせきからも旧石器時代の石器がたくさん見つかっており、この一帯は、縄文時代じょうもんじだいには人々が暮らしやすい場所だったと考えられます。

水門の北部からは、中世の社寺の石積跡も見つかっています。

参照:橘町のみどころ 歴史シリーズ④ おつぼ山神籠石

阿高式土器文様(熊本県阿高)
隣接する草場遺跡の石器
おつぼ山神籠石 第1水門跡

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豆知識 掻器(そうき)

 掻器とは、旧石器時代に使われた石器の一種で、主に皮をなめすために使われた道具です。剥片(はくへん)と呼ばれる石の破片の端を加工して作られ、刃の部分は厚く、丸みを帯びているのが特徴です。

掻器(出典:世田谷デジタルミュージアム)

Google AIによる概要 より

豆知識 阿高式土器(あだかしきどき)

 阿高式土器とは、縄文時代中期(約5000年前)に九州で特徴的に作られた深鉢形土器です。指先状のもので描いた「太形凹線文(ふとがたおうせんもん)」と呼ばれる文様が口縁部から胴部にかけて施されているのが特徴で、底部の外側には木の葉やクジラの脊椎骨の圧痕が見られることがあります。

Google AIによる概要 より

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史跡⑦ 形右衛門窯跡

 小野原旧窯きゅうかま廃窯はいように伴い、古川形右衛門ぎょううえもん(古川製陶所の先祖)という人が明治めいじ44年に12室の登り窯のぼりがまを築いたことに始まります。上位の3室は幅4間(7.2m)以上もある大きなもので、当時は東洋一とうよういちほこっていたといいます。(野田伝のだ つたえ「橘町の甕窯かめかまついて」)。

 製品は三石さんこく(540リットル)入りの大型をはじめ、大小様々のかめはちが焼かれていました。当時は県内でもめずらしい自家用じかようトラックで鹿児島かごしま焼酎しょうちゅう工場こうじょう直送ちょくそうした(一般的いっぱんてきには港から船積ふなづみ)そうです。

小野原旧窯跡・形右衛門窯跡位置図
甕利用のイメージ写真
黒酢仕込み風景
形右衛門窯跡の甕
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史跡③ おつぼ山第一経塚

 平安時代末期まっきになると、政治・社会の混乱が増し「末法思想まっぽうしそう」が広がりました。そんな時代背景の中で「ただ念仏ねんぶつとなえるだけで往生おうじょうがかなう」という浄土教じょうどきょうは大変魅力的で、人々に浄土思想じょうどしそうが広まりました。

 経塚きょうづかは、平安時代の人々がお願いごとをするために、経典きょうてんを埋めて祈ったものです。2つの経塚は、神籠石こうごいし調査の時に見つかりました。青銅製せいどうせい経筒きょうつつに金粉がってあったらしいと郷土史『ゆか里』に書かれています。

おつぼ山第1経塚の発見状況(佐賀県の経筒から)
おつぼ山第1経塚の経筒
おつぼ山第1経塚の経筒(佐賀県の経筒から)

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豆知識 末法思想(まっぽうしそう)

 末法思想(まっぽうしそう)とは、釈迦の死後、仏教の教えが衰え、悟りを得る人がいなくなる時代が到来するという仏教の歴史観です。正法、像法の時代を経て、最後には仏教の教えだけが形骸化して残り、人も世も乱れる「末法」の時代に入ると考えられました。日本では1052年(永承7年)から末法に入ると信じられ、その不安感から浄土教が広まりました。

時代の区分

 末法思想では、釈迦入滅後の時代を以下のように3つの期間に分けます。

  • 正法(しょうぼう)
    釈迦の教えと修行、そして悟りを得る人が存在する時代。
  • 像法(ぞうほう)
    釈迦の教えが形として残り、修行する人もいますが、悟りを得ることは難しい時代。
  • 末法(まっぽう)
    教えも修行も衰え、悟りを得る人がいなくなる、暗黒の時代。

日本の状況

  • 1052年の末法到来説
    日本では平安時代中期に、釈迦入滅後2000年が経過し、1052年が末法の時代に入るとする説が有力になりました。
  • 世の乱れ
    この時期は、天災や飢饉が相次ぎ、武士の台頭など世の中が混乱し、末法の時代に入ったという不安感を広めました。
  • 浄土教の流行
    末法では現世での救いが得られないと考えられたため、亡くなった後に極楽往生できることを願う浄土教が広く信じられるようになりました。

Google AIによる概要 より

豆知識 浄土思想(じょうどしそう)

 浄土思想とは、阿弥陀如来(あみだにょらい)の無限の慈悲によって、人々が死後に「極楽浄土(ごくらくじょうど)」という仏の国へ生まれ変わることを願う教えです。煩悩を抱えた人間がそのままでは悟りを開くことが難しいため、阿弥陀仏に救いを委ね、ひたすら「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と念仏を唱え、極楽浄土への往生を願うものです。この思想は法然(ほうねん)や親鸞(しんらん)らによって広まり、日本で広く民衆に受け入れられてきました。

浄土思想のポイント

  • 阿弥陀仏の救い
    浄土思想の中心は、阿弥陀仏の「他力本願(たりきほんがん)」の救いです。自分自身の力ではなく、阿弥陀仏の力によって救われると考えます。
  • 極楽浄土への往生
    念仏を唱え、阿弥陀仏の誓いを信じることで、この世の穢れた(けがれた)世界から離れ、阿弥陀仏が住む極楽浄土へ往生できると説いています。
  • 念仏
    最も特徴的な実践は「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えることです。この念仏を唱える行為が、極楽浄土へ往生するための重要な手段となります。
  • 時代背景
    仏教が盛んになるにつれて、特に鎌倉時代の世情不安の中で、民衆からの共感を得て広まりました。

歴史的発展

  • 中国での発展
    インドで誕生した浄土教は中国に伝わり、特に善導(ぜんどう)によって発展しました。
  • 日本への伝来と普及
    日本には奈良時代に伝来し、平安時代後期には「末法思想(まっぽうしそう)」と結びつき、貴族から庶民まで幅広く浸透しました。
  • 日本の宗派の確立
    法然が浄土宗、親鸞が浄土真宗、一遍(いっぺん)が時宗をそれぞれ開きました。これらの宗派は、共に阿弥陀仏の救いを信じ、極楽浄土への往生を願うという点で共通しています。

Google AIによる概要 より

豆知識 経塚(きょうづか)・経筒(きょうづつ)

「経塚」は、仏教の経典を「経筒」という容器に入れて地中に埋納した場所です。経筒は経典を湿気や風化から保護するための容器で、銅製が主ですが、陶製や石製などもあります。経塚は仏法の滅亡を意味する「末法思想」が広まった平安時代末期から鎌倉時代にかけて盛んになり、仏の教えを未来に伝えるための「タイムカプセル」のような役割を持っていたと考えられています。

経筒(きょうづつ)とは

  • 仏教経典を納めるための円筒形の容器です。
  • 耐久性のある材料で作られ、銅製が最も多いですが、鉄製、陶製、石製などもあります。
  • 上部にはつまみや宝珠形の蓋が付いていることが多く、経筒自体が仏塔を模した形をしています
  • 経筒には経塚造営の目的や、関係者の名前などが銘文として彫られていることもあり、当時の歴史を知る貴重な資料となります。

経塚(きょうづか)とは

  • 経筒をさらに石や陶器の容器に入れ、土中に埋めた場所、またはその塚のことです。
  • 平安時代末期に広まった末法思想(仏教の教えが衰退するという考え方)に基づき、将来に仏の教えを届けるという願いを込めて作られました。
  • 経筒以外にも、銅鏡、小刀、仏像、仏具、小型の容器、古銭などが副納品として一緒に埋められることもありました。
  • 経塚は、現代のタイムカプセルのように、未来の人々へ願いや教えを託すためのものでした

Google AIによる概要 より

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史跡② おつぼ山神籠石

 今から1300年以上前に造られた朝鮮式ちょうせいんしき山城やましろです。学者の間で神籠石こうごいしが神様をまつる場所なのか、山城なのかが長らく議論ぎろんされていましたが、山城やましろだと初めて明らかにされたことで有名です。国史跡に指定されました。

 663年の白村江はくすきのえの戦いの後、防御ぼうぎょ施設として造られた可能性が高く、約1.9㎞の列石(一部欠落)、アーチ状の第1・第2水門、東門、版築構造はんちくこうほう(図のように土を突き固めて作る工法)の第1土塁などがよく残り、立岩たていわ立岩付近が列石の原材料地と考えられます。

参照:㊹ おつぼ山神籠石 詳細解説
参照:橘町のみどころより 歴史シリーズ④ おつぼ山神籠石
参照:武雄市の文化財 おつぼ山神籠石のパンプレット

参照:おつぼ山神籠石 第一水門
参照:おつぼ山神籠石 第二水門
参照:おつぼ山神籠石 東門

おつぼ山神籠石の列石
第2水門
版築工法のイラスト
神籠石東門

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豆知識 神籠石(こうごいし)

 神籠石は、北部九州を中心に瀬戸内地方にかけて分布する、山に築かれた古代の城跡である「神籠石(こうごいし)式山城」を指す遺構の総称です。特徴は、山中の尾根や谷を幾つか取り込み、外周に土塁を巡らせ、その土塁の根元に切石を並べた列石で囲いを作っている点です。山城の存在は確認されているものの、日本書紀などの古い文献に記載がないため、その目的や築城背景については未だ多くの謎に包まれています。

参照:神籠石(Wikipediaへ)

神籠石の主な特徴

  • 古代山城の一種:
    山の尾根と谷を取り込んで築かれた大規模な構造を持つ古代の山城です。
  • 列石と土塁:
    築城された土塁の基底部に、方形状に加工した切石を並べた列石が見られるのが特徴です。
  • 水門の存在:
    谷筋には、水が通るための水門が設けられています。
  • 文献に記載がない:
    『日本書紀』などの正史に記録がないため、謎が多い遺構とされています。
  • 築城時期の特定:
    一般的に白村江の戦い(663年)以降の7世紀後半に、大陸からの脅威に備えて築かれたと考えられています。

 Google AIによる概要 より

豆知識 白村江の戦い(はくそんこうのたたかい、はくすきのえのたたかい)

 白村江の戦いは、663年に朝鮮半島・白村江(現在の錦江河口付近)で、百済復興を目指す日本・百済連合軍と、唐・新羅連合軍の間で行われた海戦です。日本は唐・新羅連合軍に大敗し、百済は滅亡、日本は朝鮮半島への影響力を失うことになりました。

詳細:

  • 背景
    660年に百済が唐・新羅の連合軍に滅ぼされた後、百済の遺臣たちは日本に救援を求め、日本は百済復興を支援するために出兵しました。
  • 戦闘
    663年8月27日、白村江で日本・百済連合軍と唐・新羅連合軍が激突。日本は水軍を主力として戦いましたが、唐・新羅連合軍に大敗しました。
  • 結果
    日本は百済への影響力を失い、朝鮮半島から撤退せざるを得なくなりました。この敗戦は、日本にとって大きな転換点となり、国内の整備や律令国家の形成に力を入れるきっかけとなりました。
  • 影響
    白村江の戦いは、日本が初めて経験した本格的な対外戦争であり、その敗北は日本に大きな衝撃を与えました。この経験から、日本は国防意識を高め、大宰府の防備を固めたり、烽(のろし)や水城(みずき)を設置したりするなど、様々な対策を講じました。

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編集:橘町歴史研究会 宮下

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