おつぼ山神籠石について、下記目次に沿って少し詳しく解説します。
目次
1節 遺跡の位置と全体配置
3節 出土遺構・遺物について
4節 考察
5節 おつぼ山神籠石のまとめ
1節 遺跡の位置と全体配置
(1)位置と他の遺跡との位置関係
遺跡は佐賀県武雄市橘町大字大日字浦田・草場にあります。図1おつぼ山周辺の遺跡 を参照ください。
おつぼ山は、神籠石のほかに、北にある橘小学校校庭遺跡から南のおつぼ山南麓遺跡まで8つの遺跡が包含された複合遺跡になっています。それらは 図1 おつぼ山周辺の遺跡 に赤枠で囲んでいます。

図1 おつぼ山周辺の遺跡
(2)関係する事業と調査報告書
昭和37年に全国で8番目の神籠石として発見され翌38年に調査、朝鮮式の山城であることが確認されました。神域説と山城説で論争をしていた神籠石の性格に終止符を打った遺跡として学史に名を残す遺跡です。
- 1次調査:おつぼ山神籠石:佐賀県武雄市史蹟調査報告(武雄市)(1965)
- 2次調査:保存管理計画に基づく確認調査(1979)
- 3次調査:同上に基づき第1水門調査 佐賀県文化財年報14(2018)
(3)調査区遺構図
この遺跡については、1次調査段階で列石の調査が完了し、2次調査でトレンチを9カ所設定(途中、六角川改修に伴う調査を先行させるため中止)、3次はおつぼ山神籠石第一水門・南門周辺において階段・看板・木製園路設置予定箇所及び遊歩道整備対象箇所を中心に、重機と人力で試掘を実施されたものです。武雄市育委員会において遺跡全体の平面図と保存整備計画図が作成されていますので 図2 おつぼ山神籠石平面図,図3 おつぼ山神籠石整備計画図 を添付します。

図2 おつぼ山神籠石平面図

図3 おつぼ山神籠石整備計画図
2節 検出遺構とその時期について
(1)全体が古代山城(飛鳥時代)

図4 版築工事イラスト
全体が複合遺跡になっていますが、最初に神籠石について紹介します。神籠石は、版築(図4 版築工事イラスト参照)と呼ばれる工法で造った土塁が山城を取り囲み、土塁の基礎には列石があります。また、南と東に門跡が、南と西に水門が見つかっています。以下に市のホームページの解説を抜粋転記します。
ここから——————
「神籠石は昭和37年に全国で8番目の神籠石として発見され翌38年に調査、朝鮮式の山城であることが確認された。神域説と山城説で論争をしていた神籠石の性格に終止符を打った遺跡として学史に名を残す。列石の総延長は1866m、列石高70cm、厚さ40cm残石の数は1313個。列石前面に3m間隔で柱穴があり、土塁を築くための板を押さえた柱の穴または防御柵と考えられている。第一水門前からは柱根3本が出土。列石材は凝灰角礫岩で近くの立岩付近がその原石の採集加工地とみられている。」
ここまで——————
おつぼ山に近い立岩付近がその原石の採集加工地とみられています。列石上には幅9mの土塁があり、谷間には水門が設けられ、門跡も2箇所確認されています。築造の時期については異論があるものの、7世紀後半の白村江の戦い(663年)に関連させる説が有力です。近年の研究成果では、大野城や基肄城などの古代山城や百済の山城を参考に造られたことが推測されています。
主要な部分の詳細は、以下の現地説明板をご覧ください。
① 南門と第1水門・・・図5「南門・第1水門」 図6「第1水門見どころ」解説図
② 列石と東門 ・・・図7「列石・東門」 図8「東門の見どころ」解説図
③ 第1土塁 ・・・図9「第1土塁」解説図
④ 第2水門 ・・・写真① 第2水門
* 図5~9については後日掲載します

写真① 第2水門
3節 出土遺構・遺物について
前述のようにおつぼ山は複合遺跡になっておりますので、夫々の解説は別稿で説明していますが、簡単に時代順に説明しておきます。
(1)縄文時代の遺構・遺物
縄文中期遺物:第一水門前から縄文中期の阿高式土器が発見されました。ここはおつぼ山第一水門遺跡として登録されています。
(2)弥生~古墳時代の遺構・遺物
1次調査の時石棺墓が2基見つかっており、それまで開口していた1基とあわせて3基になります。
また南部で数個の弥生式蕗棺が露出していたのでおつぼ山南麓遺跡として登録されています。
(3)平安時代の遺構:遺物
1次調査の時経筒が2個見つかっており、これらもそれぞれおつぼ山第1経塚遺跡、おつぼ山第2経塚遺跡として登録されています。
(4)中世の遺構・遺物
昭和12~3年頃、橘小学校校庭整備中に硯が見つかっており玉泉寺跡と想定されています。橘小学校校庭遺跡として登録されています。また、第1水門のトレンチ調査で、室町時代の寺跡の基壇と思われるのが見つかり、正覚寺跡と考えられます。
(5)近代の遺構・遺物
窯跡が2カ所あります。小野原旧窯跡と形右衛門窯跡として登録されています。
4節 考察
(1) おつぼ山神籠石の設置目的
日本書紀に記録された基肄城や神籠石は、「古代山城」と呼ばれ、一般的には663年の白村江の戦いで大敗した日本が防衛のために築城したと考えられています。古代山城の中で神籠石と呼ばれてきたものについては、文献に記載がないこと、年代を示す遺物の出土も少なくその存続年代が明らかでないこと、築城場所の標高が雷山のように高いものからおつぼ山のように低いものまであることなどから、未だ諸説があります。それら諸説には、築城目的が筑紫の君などの国内勢力への対抗の為に造られたというもの(磐井の乱は527年)や、築城時代が白村江の戦以後になるなどの説があります。
おつぼ山神籠石は古代山城の中で最西端に位置し、しかも低平地際に建造されています。また、西側列石は欠落し、列石内部に倉庫棟の建築物が見つかっていないことから見世物としての築城説もあります。
白村江の戦いは百済復興支援の戦いです。それまで友好国であった唐と百済の2者択一を迫られ、倭国は百済を選択したことになります。すると唐対策が必要になるわけで、古代山城の立地場所もこの線から考える必要があります。白雉4年(653年)・白雉5年(654年)と2年連続で遣唐使が派遣されたのは、唐の情報を知るためだったと思われます。

図10 北部九州における古代山城の位置
北部九州の海外交易ルートは、魏志倭人伝の影響が強いせいか、弥生時代から玄海ルートが主に脚光を浴びてきました。しかし、弥生時代以前から九州西海岸の交易ルートがあります。また、有明海は遠浅のために海上交通に適していないように見られがちですが、ずっと後世の平安時代にさえ平清盛が神崎の荘を経て大宰府へ貿易品を運んでいました。 これらのことを考えると、新羅対策だけでなく唐対策の重要であり、有明海からの防衛が必要となります。
古代山城を西の方から並べると、武雄市おつぼ山城、佐賀市帯隈山城、基山町基肄城、久留米市高良山城、みやま市女山城、菊池市鞠智城は、有明海を取り囲む防衛ラインとして必要な城であり、決して見世物ではなかったと考えます(図10 北部九州における古代山城の位置)。そして、おつぼ山は有明海の塩田・鹿島方面からの上陸対策の拠点として設置されたのではないでしょうか。
(2) おつぼ山と古代官道と古代潮見川

図11 縄文海進と弥生時代集落
有明海からの防衛対策を考えた場合、杵島山の東側、つまり海に面した側になぜ築城しなかったのかとの疑問がわきます。このことについては、古代官道のルートを考える必要があります。古代官道は、奈良時代になって整備されたルートとされますが、飛鳥時代に古代山城を築城したのですから、軍隊を動かすための道は必要だったはずです。奈良時代になって、突然新たに古代の国道が設置されたと考えるよりも、それ以前からベースとなる道があったと考える方が自然です。これまでも度々触れてきましたが、橘盆地は近世まで芦原と呼ばれる湿地帯が残っていた所です。
縄文海進時の海岸線を 図11 縄文海進と弥生時代集落 に示しました。東川は、古代には潮見川が本流として流れていました。おつぼ山周辺を観察しますと、古代潮見川が海へ流れ込む場所は、小野原地区では陸側へ深く入り込んでいます。おつぼ山の西斜面は古代史思側が本流として流れ、第一水門にかけては時には浸水する場所であったと想像されます。ですから古代官道は、今の498号線よりも標高の高い場所に位置し、おつぼ山と杵島山との鞍部を通っていました。(図12 古代官道)おつぼ山城は、西側部分を古代潮見川に守られていた訳です。

図12 古代官道
一方白石側はどうだったのでしょうか。白石町史を見ますと古代の海岸線が推定されており(図13 白石町史より奈良・平安時代の海岸推定線参照)、有明町竜王は、海岸が杵島山に接しています。ですから古代の国道を通せる場所ではなかったと考えます。古代官道は鳥栖~多久までも背振山系・天山などの山麓の高地を通っています。古代官道九州ルートは、八女周辺の豪族対策のため鳥栖から佐嘉・多久を経て橘から塩田を通り、更に大村へ出て島原から宇土半島へ渡るルートであったことは定説となっています。律令時代の多田郷(白石町に想定)は人が住める環境ではありましたが、弥生時代から田地の開発が進んでいた橘盆地よりも後発地域です。

図13 白石町史より奈良・平安時代の海岸推定線
兵となるべき人はそれほど多くなかったのではないでしょうか。また、小城から杵島山の麓に道路を通す場合、大町以東ルートと北方ルートを比較してみましょう(図13 参照)。
当時六角川周辺には潟地が広がっていた筈ですが、そこを渡る距離が短い方を選んだはずです。大町以東の六角川には、今でも有明湾岸の自動車専用道路に長大な橋がかけられています。古代官道は、これらの理由から多久を通り、北方から杵島山西側の丘陵地を通るルートが選定されたのだと考えます。
(3) おつぼ山の西側列石はどこに行った?
図2を見ますと、西側の列石は所々に一部残置されていますが、殆ど残っていません。おつぼ山の列石は、成富兵庫が江戸時代初期に潮見川を開発する際に列石を利用したと言われてきました。潮見川は、「橘町史跡めぐり」によると、成富兵庫以前に、橘氏が入部(1237年)後に潮見山から流れ出る小川をつないで東川の方へ流れていた川を潮見山裾の方へ変えたとされます。潮見川流域の発掘調査の結果、潮見山下遺跡では「南北に続く15mほどの列石(旧河川の列石=中世と想定)と砂質土を確認。トレンチでも深さ計測不能な深さの河川敷跡」が検出されました。しかし、残念ながら石材の分析までは行われていません。郷の木遺跡でも「現六角川の方に落ち込む旧河川敷」が見つかっており、それらを「潮見・郷の木遺跡」のところで紹介した所です注1。潮見川は、中世期に昭和60年頃の改修前の姿であったことが証明されました。
橘町史跡めぐりでは、成富兵庫による江戸初期の改良は潮見川の拡幅、大日井關再興工事とそれに伴う沖永へ流れる道越川の開削と考えられています。持ち去った物が誰であるかを明らかにするには、これらの部分の石材調査が必要です。石材分析の結果、神籠石の石質と同じで、なおかつ形状や加工仕上げ等から神籠石を使用した可能性があるのであれば、場所によっては成富兵庫又は橘氏一族の仕業のいずれかが分るでしょう。石材の分析が必要なわけで、当分の間は謎のまま残りますね。現時点では、古代潮見川との関係から、もともと列石はなかった可能性も否定できません。
(4)杵島郡団はどこにあった?
古代の山城があるので、肥前の国にあったとされる杵島郡団も橘盆地周辺に配置されたものと思われます。動石(ゆるぎ石)伝説から、鳴瀬や釈迦寺あたりにあったと予想されていますが、鳴瀬山の調査は行われていないので、物的な証拠がありません。
5節 おつぼ山神籠石のまとめ
(1)遺跡の性格と時代
遺跡は、古代山城
(2)遺構・遺物の中で特徴的なもの
- 学術上、日本で初めて神籠石が山城であるとわかった列石及び土塁とその工法
- 第1・第2水門
- 南門・東門
(3)考察・その他
- おつぼ山神籠石は、有明海ルートからの防衛施設と考える
- 古代官道が杵島山西麓を通った理由と杵島郡団が鳴瀬周辺にあったとする理由・杵島山東麓は竜王崎で古代官道を通すことができなかった
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- 潟地を渡る距離を短くする必要があった
- 多田(白石)側よりも橘盆地側の方が、田地開発が早かった
- 軍隊を素早く移動させるには、古代官道とおつぼ山神籠石(古代山城)はセットだったので、2つが揃った場所に杵島郡団はあった。
- おつぼ山神籠石の西側は古代潮見川が山裾を洗う場所であり、川に防衛された面もあった
- 西側部分の列石がない理由については、潮見川の石質調査が必要である。現時点では、古代潮見川との関係から、もともと列石はなかった可能性も否定できない。