史跡③ おつぼ山第一経塚

 平安時代末期まっきになると、政治・社会の混乱が増し「末法思想まっぽうしそう」が広がりました。そんな時代背景の中で「ただ念仏ねんぶつとなえるだけで往生おうじょうがかなう」という浄土教じょうどきょうは大変魅力的で、人々に浄土思想じょうどしそうが広まりました。

 経塚きょうづかは、平安時代の人々がお願いごとをするために、経典きょうてんを埋めて祈ったものです。2つの経塚は、神籠石こうごいし調査の時に見つかりました。青銅製せいどうせい経筒きょうつつに金粉がってあったらしいと郷土史『ゆか里』に書かれています。

おつぼ山第1経塚の発見状況(佐賀県の経筒から)
おつぼ山第1経塚の経筒
おつぼ山第1経塚の経筒(佐賀県の経筒から)

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豆知識 末法思想(まっぽうしそう)

 末法思想(まっぽうしそう)とは、釈迦の死後、仏教の教えが衰え、悟りを得る人がいなくなる時代が到来するという仏教の歴史観です。正法、像法の時代を経て、最後には仏教の教えだけが形骸化して残り、人も世も乱れる「末法」の時代に入ると考えられました。日本では1052年(永承7年)から末法に入ると信じられ、その不安感から浄土教が広まりました。

時代の区分

 末法思想では、釈迦入滅後の時代を以下のように3つの期間に分けます。

  • 正法(しょうぼう)
    釈迦の教えと修行、そして悟りを得る人が存在する時代。
  • 像法(ぞうほう)
    釈迦の教えが形として残り、修行する人もいますが、悟りを得ることは難しい時代。
  • 末法(まっぽう)
    教えも修行も衰え、悟りを得る人がいなくなる、暗黒の時代。

日本の状況

  • 1052年の末法到来説
    日本では平安時代中期に、釈迦入滅後2000年が経過し、1052年が末法の時代に入るとする説が有力になりました。
  • 世の乱れ
    この時期は、天災や飢饉が相次ぎ、武士の台頭など世の中が混乱し、末法の時代に入ったという不安感を広めました。
  • 浄土教の流行
    末法では現世での救いが得られないと考えられたため、亡くなった後に極楽往生できることを願う浄土教が広く信じられるようになりました。

Google AIによる概要 より

豆知識 浄土思想(じょうどしそう)

 浄土思想とは、阿弥陀如来(あみだにょらい)の無限の慈悲によって、人々が死後に「極楽浄土(ごくらくじょうど)」という仏の国へ生まれ変わることを願う教えです。煩悩を抱えた人間がそのままでは悟りを開くことが難しいため、阿弥陀仏に救いを委ね、ひたすら「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と念仏を唱え、極楽浄土への往生を願うものです。この思想は法然(ほうねん)や親鸞(しんらん)らによって広まり、日本で広く民衆に受け入れられてきました。

浄土思想のポイント

  • 阿弥陀仏の救い
    浄土思想の中心は、阿弥陀仏の「他力本願(たりきほんがん)」の救いです。自分自身の力ではなく、阿弥陀仏の力によって救われると考えます。
  • 極楽浄土への往生
    念仏を唱え、阿弥陀仏の誓いを信じることで、この世の穢れた(けがれた)世界から離れ、阿弥陀仏が住む極楽浄土へ往生できると説いています。
  • 念仏
    最も特徴的な実践は「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えることです。この念仏を唱える行為が、極楽浄土へ往生するための重要な手段となります。
  • 時代背景
    仏教が盛んになるにつれて、特に鎌倉時代の世情不安の中で、民衆からの共感を得て広まりました。

歴史的発展

  • 中国での発展
    インドで誕生した浄土教は中国に伝わり、特に善導(ぜんどう)によって発展しました。
  • 日本への伝来と普及
    日本には奈良時代に伝来し、平安時代後期には「末法思想(まっぽうしそう)」と結びつき、貴族から庶民まで幅広く浸透しました。
  • 日本の宗派の確立
    法然が浄土宗、親鸞が浄土真宗、一遍(いっぺん)が時宗をそれぞれ開きました。これらの宗派は、共に阿弥陀仏の救いを信じ、極楽浄土への往生を願うという点で共通しています。

Google AIによる概要 より

豆知識 経塚(きょうづか)・経筒(きょうづつ)

「経塚」は、仏教の経典を「経筒」という容器に入れて地中に埋納した場所です。経筒は経典を湿気や風化から保護するための容器で、銅製が主ですが、陶製や石製などもあります。経塚は仏法の滅亡を意味する「末法思想」が広まった平安時代末期から鎌倉時代にかけて盛んになり、仏の教えを未来に伝えるための「タイムカプセル」のような役割を持っていたと考えられています。

経筒(きょうづつ)とは

  • 仏教経典を納めるための円筒形の容器です。
  • 耐久性のある材料で作られ、銅製が最も多いですが、鉄製、陶製、石製などもあります。
  • 上部にはつまみや宝珠形の蓋が付いていることが多く、経筒自体が仏塔を模した形をしています
  • 経筒には経塚造営の目的や、関係者の名前などが銘文として彫られていることもあり、当時の歴史を知る貴重な資料となります。

経塚(きょうづか)とは

  • 経筒をさらに石や陶器の容器に入れ、土中に埋めた場所、またはその塚のことです。
  • 平安時代末期に広まった末法思想(仏教の教えが衰退するという考え方)に基づき、将来に仏の教えを届けるという願いを込めて作られました。
  • 経筒以外にも、銅鏡、小刀、仏像、仏具、小型の容器、古銭などが副納品として一緒に埋められることもありました。
  • 経塚は、現代のタイムカプセルのように、未来の人々へ願いや教えを託すためのものでした

Google AIによる概要 より

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史跡② おつぼ山神籠石

 今から1300年以上前に造られた朝鮮式ちょうせいんしき山城やましろです。学者の間で神籠石こうごいしが神様をまつる場所なのか、山城なのかが長らく議論ぎろんされていましたが、山城やましろだと初めて明らかにされたことで有名です。国史跡に指定されました。

 663年の白村江はくすきのえの戦いの後、防御ぼうぎょ施設として造られた可能性が高く、約1.9㎞の列石(一部欠落)、アーチ状の第1・第2水門、東門、版築構造はんちくこうほう(図のように土を突き固めて作る工法)の第1土塁などがよく残り、立岩たていわ立岩付近が列石の原材料地と考えられます。

参照:㊹ おつぼ山神籠石 詳細解説
参照:橘町のみどころより 歴史シリーズ④ おつぼ山神籠石
参照:武雄市の文化財 おつぼ山神籠石のパンプレット

参照:おつぼ山神籠石 第一水門
参照:おつぼ山神籠石 第二水門
参照:おつぼ山神籠石 東門

おつぼ山神籠石の列石
第2水門
版築工法のイラスト
神籠石東門

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豆知識 神籠石(こうごいし)

 神籠石は、北部九州を中心に瀬戸内地方にかけて分布する、山に築かれた古代の城跡である「神籠石(こうごいし)式山城」を指す遺構の総称です。特徴は、山中の尾根や谷を幾つか取り込み、外周に土塁を巡らせ、その土塁の根元に切石を並べた列石で囲いを作っている点です。山城の存在は確認されているものの、日本書紀などの古い文献に記載がないため、その目的や築城背景については未だ多くの謎に包まれています。

参照:神籠石(Wikipediaへ)

神籠石の主な特徴

  • 古代山城の一種:
    山の尾根と谷を取り込んで築かれた大規模な構造を持つ古代の山城です。
  • 列石と土塁:
    築城された土塁の基底部に、方形状に加工した切石を並べた列石が見られるのが特徴です。
  • 水門の存在:
    谷筋には、水が通るための水門が設けられています。
  • 文献に記載がない:
    『日本書紀』などの正史に記録がないため、謎が多い遺構とされています。
  • 築城時期の特定:
    一般的に白村江の戦い(663年)以降の7世紀後半に、大陸からの脅威に備えて築かれたと考えられています。

 Google AIによる概要 より

豆知識 白村江の戦い(はくそんこうのたたかい、はくすきのえのたたかい)

 白村江の戦いは、663年に朝鮮半島・白村江(現在の錦江河口付近)で、百済復興を目指す日本・百済連合軍と、唐・新羅連合軍の間で行われた海戦です。日本は唐・新羅連合軍に大敗し、百済は滅亡、日本は朝鮮半島への影響力を失うことになりました。

詳細:

  • 背景
    660年に百済が唐・新羅の連合軍に滅ぼされた後、百済の遺臣たちは日本に救援を求め、日本は百済復興を支援するために出兵しました。
  • 戦闘
    663年8月27日、白村江で日本・百済連合軍と唐・新羅連合軍が激突。日本は水軍を主力として戦いましたが、唐・新羅連合軍に大敗しました。
  • 結果
    日本は百済への影響力を失い、朝鮮半島から撤退せざるを得なくなりました。この敗戦は、日本にとって大きな転換点となり、国内の整備や律令国家の形成に力を入れるきっかけとなりました。
  • 影響
    白村江の戦いは、日本が初めて経験した本格的な対外戦争であり、その敗北は日本に大きな衝撃を与えました。この経験から、日本は国防意識を高め、大宰府の防備を固めたり、烽(のろし)や水城(みずき)を設置したりするなど、様々な対策を講じました。

 Google AIによる概要 より

編集:橘町歴史研究会 宮下

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史跡① 橘小学校校庭遺跡

 「玉泉寺」という中世ちゅうせいのお寺跡です。昭和12~13年頃、小学校敷地拡張しきちかうちょうの時、「応永おうえい35年」(西暦1428年)とられたすずりが見つかりました。昭和の時代、忠霊塔ちゅうれいとう石垣いしがき下に小さな池がありましたが、その北側にあった石炭ストーブの倉庫(避病院跡ひびょういんあと)の場所と考えられます。

 橘氏たちばなし長島庄ながしましょう(今の武雄市周辺)にやってきてから200年ほどたった頃になります。橘氏9代渋江公朝しぶえきみともの頃と思われ、武雄では16代後藤正明ごとうまさあきが九州探題たんだいの渋川氏から塚崎つかざき長島ながしま総地頭職そうじとうしょく下知げちされています。郷土史家中島なかしま平一へいいち氏は「この時期、渋江しぶえの勢力が弱まり、幕府の混乱、九州探題たんだいの交代などにまぎれ長島庄の一部、花島はなしま芦原あしはら等が後藤氏に帰属きぞくしたのではないか」と推測すいそくされています。

参照:橘町のみどころより 歴史シリーズ⑦ 長島庄政所
参照:橘町のみどころより 歴史シリーズ㉙ 長島庄の成立ち

橘小学校校庭遺跡の場所
応永年間の硯石(佐賀県の経筒から)

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豆知識 長島庄(ながしまのしょう)

 長島庄は、平安時代に京都の蓮華王院(れんげおういん)の領地として成立した肥前国(現在の佐賀県武雄市一帯)の荘園です。1172年(承安2年)以前には成立していたことが確認されています。

 Google AIによる概要 より

豆知識 探題(たんだい)

「探題」とは、元々は仏教用語で経典の論題の選定や評定を行う役職を指しますが、転じて鎌倉幕府の「六波羅探題」や「鎮西探題」のように、幕府の出先機関の長官を指す言葉としても用いられました。また、室町時代以降には管領(かんれい)権を持つ広い地域の支配者を指すこともあります。

探題の主な意味
  • 仏教用語
    経典の論議において、論題(議論のテーマ)を選び、問答の後にその論旨の可否を評定する役僧。
  • 幕府の役職名(鎌倉時代)幕府の出先機関の長官の通称。具体的には、京都に置かれた六波羅探題(西日本担当)や九州に置かれた鎮西探題(九州担当)などがあり、幕府の命令を実行する裁判官のような役割も担っていました。
  • 幕府の役職名(室町時代以降)
    幕府や関東府の管領・執事ではなく、それ以外の広い地域を管領する権限を持つ職に「探題」の名称が用いられました。
    例えば、九州を管領する「九州探題」、陸奥・出羽を管領する「奥州探題」などです。

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豆知識 下知(げち、げじ、げぢ)

「下知」は、上からの命令や指図を意味する言葉です。また、鎌倉・室町時代には、将軍や家臣が出した**裁判の判決や命令書(下知状)**そのものを指すこともありました。

具体的な意味
  • 命令・指図すること
    上司や権力のある人が部下や家臣に何かをするように指示すること、あるいはその指示自体を指します。
  • 判決・命令書
    鎌倉時代から室町時代にかけて用いられた「下知状(げじじょう)」という文書を略して下知と呼ぶこともありました。この文書には、裁判の判決や所領の譲与、安堵(安全を保障すること)などが記されています。

 Google AIによる概要 より

豆知識 避病院(ひびょういん)

 避病院とは、明治時代以降に流行したコレラなどの伝染病患者を隔離・収容して治療するために設置された病院です。当時は「伝染病隔離病舎」と呼ばれ、感染症の拡大を防ぐ役割を担っていました。現代では「感染症指定医療機関」として同様の役割を持つ医療機関がその機能を継承しています。

避病院の主な特徴
  • 目的::伝染病患者の隔離と感染拡大防止。
  • 設置時期::明治10年代(1877年以降)に全国に設置されました。
  • 患者の収容::患者の状態(快復期、軽症、重症など)に応じて病室が割り当てられる仕組みがありました。
  • 位置づけ
    人家から離れた場所に設けられ、感染症の流行が収まると破却されることもありました。
  • の継承
    戦後に「隔離病舎」と呼ばれ、昭和期には「伝染病予防法」に基づき伝染病院へ、さらに感染症法に基づき感染症指定医療機関へと役割が引き継がれています。

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史跡⑥ 小野原旧窯跡

 古川製陶所の奥にありました。明治36年に橘町上野かみの山口秀古やまぐちひでふると言う人がかめかまとして築いた7室の登り窯のぼりかまです。はちかめ・人形などが焼かれましたが、明治43年にかまを廃止したと記録にあります。

 橘のかめは、上野かみのの「本登り窯」などで、江戸後期から焼かれています。かめは空気をわずかに通すので、飲み水をめたり、焼酎しょうちゅう醤油しょうゆなどの醸造用じょうぞうようとして重宝ちょうほうされました。

 橘のかめは、塩田しおた鳴瀬なるせの港から積み出され、遠くは海外にも輸出されたそうです。

参照:橘町のみどころ 歴史シリーズ⑨ 鳴瀬宿

古川製陶所奥に小野原旧窯跡
小野原旧窯跡・形右衛門窯跡位置図

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豆知識 塩田、塩田津(しおたつ)

 塩田津とは、佐賀県嬉野市にある、長崎街道の宿場町と有明海の干満を利用した川港が交わる歴史的な商家町です。江戸時代に火災や風水害に強い漆喰で覆われた大型町家「居蔵家(いぐらや)」が発展し、塩田石工が造った恵比寿像などとともに、重厚で歴史的な町並みが形成されています。2005年には「重要伝統的建造物群保存地区」に選定され、現在もその歴史的景観が保たれています。

塩田津の特徴

  • 歴史的背景
    • 長崎街道の宿場町
      江戸時代、長崎街道の宿場として旅人の往来で賑わいました。
    • 有明海の川港
      有明海の干満差を利用した塩田川の川港として、甕や陶石や陶磁器の積み下ろしが行われ、地域の経済拠点となりました。
       
特徴的な建築物
  • 居蔵家(いぐらや)
    火災や風水害に強い漆喰で二階を覆った、大型の町家建築です。
  • 石造物
    塩田石工によって造られた仁王像や恵比寿像、川沿いの石垣などが見られます。
  • 歴史的建造物
    国指定重要文化財の西岡家住宅や国登録有形文化財の杉光陶器店嬉野市指定重要文化財の旧下村家住宅などがあります。

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史跡⑤ おつぼ山石棺群

 石棺せっかんとは、石を加工してひつぎにしたお墓のことです。

神籠石こうごいし調査の時※1 箱式はこしき石棺が2基見つかりました。中央の1基から直径9cm※2 仿製鏡ほうせいきょう(日本で造られた鏡)が見つかっています。

 また別の石棺せっかんから人骨も見つかっています。調査以前にも1基が八郎社はちろうしゃの南に露出していましたので、全体では3基みつかっています。弥生時代から古墳時代にかけての遺跡です。

※1橘町郷土史ではミカン園造成時、ゆか里では神籠石調査時の発見と記載

※2橘町郷土史では直系9cm、ゆか里では10cmと記載

24号おつぼ山石棺墓

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豆知識 仿製鏡・倣製鏡(ぼうせいきょう)

 仿製鏡・倣製鏡)とは、弥生時代後期から古墳時代にかけて、東アジアで主流をなしていた中国の青銅鏡を模倣して日本で作られた銅鏡のことです。中国大陸で作られた「舶載鏡(はくさいきょう)」と呼ばれる鏡が日本に伝わり、それを参考に日本の技術で鋳造されたもので、日本で作られたものが特に多いのが特徴です。

特徴
  • 模倣品であること
    中国の銅鏡の文様や形をそのまま模して作られています。
  • 日本製であること
    日本列島で製造された銅鏡です。
  • 弥生時代後期から古墳時代に作られた
    弥生時代後期から古墳時代にかけて制作が盛んに行われました。
  • 副葬品として出土
    古墳時代には有力者の権威の象徴として、墓に副葬品として埋められることが多かったと考えられています。

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舶載鏡(はくさいきょう)

 舶載鏡とは、古代に中国で製造され、日本に伝来した銅鏡のことを指します。弥生時代から古墳時代にかけて、中国からの様々な種類の舶載鏡が伝わり、日本の古墳時代における銅鏡文化の発展に大きな影響を与えました。これらの鏡は、祭祀用具として使われるだけでなく、中国との文化交流の証拠としても重要な考古資料となっています。

舶載鏡の時代と種類

  •  前漢(ぜんかん)の時代の精白鏡(せいびんきょう)や、後漢(ごかん)の時代の四神鏡(ししんきょう)、内行花文鏡(ないこうかもんきょう)などが伝来しました。
  •  中国の三国・六朝(さんごく・りくちょう)時代の神獣鏡(しんじゅうきょう)や画像鏡(がぞうきょう)など、多様な鏡が多数発見されており、特に三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)は有名です。

舶載鏡の意義

  • 文化的交流の証拠
     舶載鏡は、当時の日本と中国との間の交流、特に大陸からの高度な文化や技術の伝播を具体的に示す資料です。
  • 祭祀の道具
     この時代の鏡は、顔を映す実用品というよりも、その輝きを用いて太陽光を反射させるなど、神聖な儀式や祭祀に使われたと考えられています。
  • 国産鏡(倭鏡)の基礎
 舶載鏡は、日本で独自のデザインを持つ国産鏡(倭鏡(わきょう))が作られる際の模倣の対象ともなり、日本の銅鏡文化の発展の基礎を築きました。
 
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