史跡 おつぼ山神籠石 東門・列石

東門全景

(現地解説板より抜粋しております。)

東門の見どころ

 おつぼ山の東側で発見された門は「東門」と呼ばれています。 城壁の途中に設けられた平面形の一番シンプルなプランの門です。 掘立柱建物の跡が確認されています。
 城門入口の正面は段差のある壁になっており、すんなり城内には入れない造りになっています。 城内の人間の協力がなければ入城することのできない、防御するのに優れた城門構造となっています。
 このタイプの門は「懸門けんもん」と呼ばれ、日本列島の中近世の城には見られないタイプの門です。 朝鮮半島では高句麗こうくり(朝鮮半島の北部にあった国)地域の山城で多く確認されている戦闘に特化した門です。

古代山城の列石

 古代山城のうち神籠石系と分類される山城の最大の特徴である加工された石の並びは「列石」と呼ばれます。 以前はこの石の並びのみが注目され議論になりましたが、おつぼ山・岩城山(山口県) の発掘調査により、敵の進入を防ぐ城壁の一部で土塁基礎部分の土留め石(基礎石とも呼ばれる)と考えられるようになりました。

列石とその加工の特徴

 外皮版築がいひばんちくと呼ばれる盛土で覆われている列石が調査で確認されていることから、 近年の研究では雨水や霜から土塁の基礎を守る役目もあったと推測されています。
なお、朝鮮半島の山城でも列石が確認されています。 板状に割った石を1~2段積むもので、おつぼ山を含む北部九州の古代山城に見られるような切石列石と呼ばれる全面加工した石材を隙間なく並べるタイプは、現時点では確認されていません。

 

列石の見どころ

東門と曲線を描く列石

おつぼ山では昭和38~39年の調査で1313個の石材が確認されており、列石を含む城壁の長さの推定は1870mです。おつぼ山も有明海沿岸の古代山城に多い曲線の城壁ラインを基本としており、そのカーブに合わせた石材加工技術はそれまでの日本列島にはない高い技術です。

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ドウザマ墓地

下記解説のついては、『郷土史 橘町史跡めぐり』橘町歴史研究会 編  P226 より引用しています。

ドウザマ墓地の道祖王・奈良麿公の墓について

伝説によると、道祖王どうそおうを奉じて橘に下向された奈良麿ならまろ公は楢崎を安住の地と定められ、この地で一生を終えられた。
今は同墓地の中央、 大木の下に一基の石碑があり更に前方の道路に近い崖の上に三基の石碑が立っている。
中央の大木の下の石碑は道祖王の墓であり、崖上の三本の石碑は奈良麿公と従者の墓と語り伝えられている。また、崖上には六地蔵ろくじぞうも祭られている。
昔は、この墓地の下の道が長崎街道で多くの人が通ったが、乗馬で通る人は必ず下馬してこの前を通ったという。若し乗馬のまま通ると目がくらみ落馬して怪我をしたと語り伝えている。

※「ドウザマ墓地」は「ドウソサマの墓地」のつまったもの

※この石碑で比較的文字の分かり易いものの拓本を取った所「応永二十一年」の文字が読まれた。同年は1414年で潮見城主第7代公治きみはるの頃か第8代公親きみちかの頃である。時代がさがったこの頃、言い伝えをたよりに潮見城主橘氏の手で石碑を建てたのであろう。

ドウザマ墓地全景

右の石柱がドウザマ墓

奈良麿公と従者の墓

奈良麿公と従者の墓

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郡境石

下記解説のついては、『郷土史 橘町史跡めぐり』橘町歴史研究会 編 P247 より引用しています。

郡境石について

南楢崎出店の十字路より500m 程東山道を進んだ所は、左側がセメント壁になっている。そのセメント壁の中央付近の壁上に「郡境石」が立っている。
高さ60㎝ 程の四角柱である。「郡境石 是從南藤津郡北杵島郡」と刻まれている造立年代等の文字は見当たらない。以前は道から山になっていて、山と道との境の所に立っていたらしいが、道路拡幅でセメント壁(高さ約3m)ができたのでセメント壁の上に移された。

国道498号と平行にすすむ道路沿いの壁

コンクリート壁の上にある郡境石

時代的には江戸時代の史跡です

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十八夜観世音

下記解説のついては、『郷土史 橘町史跡めぐり』橘町歴史研究会 編 P238 より引用しています。

堂宇

十八夜観世音 木造金箔塗座像 (中山悟氏所有)

この観音さんについては次のようなお話が語り伝えられている。

 『この観音さんは、今から200年程前享和年間(1801年~1803年)には東川登町に祀ってあったが、どうしたものか怒り易く咎めて仕方がないので、村中の人びとが相談し、遂に川に流すことにし、蓮の葉にのせて潮見川に流してしまった。

その頃、楢崎の中山寅一氏の5・6代の先祖にあたる人が、「余は観世音菩薩なり、今潮見川に流れている。速かに勧請すべし。」との夢を3夜連続して見られたので不思議に思って潮見川を探した所、今の鐘が渕(感応院の下付近)に蓮の葉の上に硯箱と共に乗っている佛様が浅瀬に流れついておられた。 中山氏は大変喜び直ちに勧請し、今の所に祭られた。その日は7月18日(新暦8月18日)の夜であったので十八夜観音と呼んだ。この祭日にはよく雨が降るといわれている。また、この観音さんはご開帳の時自分が出たくないと荒れるので今まで数度しか開いたことがないとのことである。』

この観音祭は昭和30年頃までは区全戸で祭っていたが国有地の拂い下げにより堂宇も共に中山清六氏の所有となったので今は中山家で祭られている。昭和の初期までは、祭り当日は感応院より見えてご祈祷をなされていたそうである。
現在の堂宇は明治期に改築された。建築材は「今の白山権現の境内の樹木を伐採製材して使用された。」とのことである。堂宇はりっぱな造りで軒燈、鈴など吊されている。

境内の石の手洗鉢には「当村若者中 中村和七(中村義昭氏の曾祖父) 中山定一 武雄町花菱の先祖」と刻んである。二人は当時の若者代表であったと思われる。

木造金箔塗座像

時代的には江戸時代後期のお話です。

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孝女の籬墓碑

下記解説のついては、『郷土史 橘町史跡めぐり』橘町歴史研究会 編  P242 より引用しています。

孝女の籬(まがき)墓碑(中村静夫氏所有地にある)

更に南側台地の尾根を進むと、山林の中に孝女籬の墓碑がある。 は文化年間(江戸時代1804年~1817年)の人で貧しい小作農の家に生まれ、病床の父母によく孝養をつくした。
文化11年(1814年) 朝廷において全国の孝子、節婦義僕等を表彰された時、は孝子として表彰の栄に浴した。当時の佐賀本藩藩主鍋島治茂は特に籬のため「孝子伝」を著し、広く世に紹介された。
墓碑は高さ3mにも及ぶ立派な石碑で、の顕彰文も刻んであるが風化が進んで読みにくい。(文中藤津郡楢崎村という言葉がある。文化のころ楢崎村は藤津郡に属していた)
この墓碑は大正12年3月15日学制発布50周年の記念事業で建立されたものである。(当時橘小学校校長山口良吾氏)

時代的には江戸時代後期の碑です。

 

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孝女籬について(孝女伝より)(原文は、漢文調の美文ですが、平易に意訳させていただきました。)

 文化の頃、藤津郡楢崎村(現在は武雄市橘町南楢崎)に弥右衛門と言う百姓がいた。他人の田畑を小作して僅かに生計を立てていたが、勤勉家でもない上に夫婦揃って大の酒好きであったからいつも貧乏であった。近所の人からも「飲右衛門」と言われ嫌われ者であった。
 ところが「鳶が鷹を生んだ」とでも言うのであろうか弥右衛門夫婦の間に擁と言う孝行の一人娘があった。籬は人の十倍も孝行娘で、そのうえ千人に一人も居ない程の美人であった。家が貧しかったので幼少の頃から糸を紡ぎ機を織って父母の酒代の足しにしていた。しかし、運命の魔神はその位では許さなかった。縮が十才になった時、母が突然血暈症にかかり、病床に臥したのである。籬の心配はそれこそ大変であった。それ以来、縮はか弱い細腕で一家の生計を支えた。 或る時は他人の着物を洗濯し、或る時は荒れた田畑を耕して親子が何とか食べていけるように働いた。 籬は苦しい生計の中から両親の好き酒を用意することを一日も忘れなかった。そして、両親が喜んで酒を飲んでくれるのを見て一日の疲労を忘れ、神に感謝するのであった。しかし、籬の一日はまだ終りません。帯を解く間もなく、病床の母を看病し、一晩中按摩して夜を明かす日があった。母の病が悪化すると、賃仕事に出ないで看病した。
すると早速困るのが酒代です。 は事情を酒屋に話し酒を借りて両親にすすめた。籬は酒代を払うために僅かの時間を惜しんで今までにも増して働いた。

 籬が19才になった時、結婚話があった。しかし「自分が他家に嫁ぐことになれば自分だけは幸せに暮せても父母の世話は誰がするでしょうか。自分の他に誰も世話する者はありません。」籬はこう言って涙を流して結婚の話を断った。籬も娘盛りである。 誰が好んで花を咲かせないはかない生活を選ぶ者が居りましょうか。前は自分の運命の悲しい境遇を考え、人の妻になることのかなわないことを覚悟していたのである。人間の悲哀もこれ程までの痛切を極める境遇になれば、宿命と諦め、深い沈黙と尊い犠牲の中に一筋の光明のさすことを願う外はなかった。
 こうしては結婚できない悲しみを秘め、酒好きの父につくし、病床に苦しむ母の看病、一家の生計を支えるための過酷な労働と四重苦に耐え、ただひたすら努力を続けていくのでした。

 文化年中、朝廷におかれては有司に命じて、日本全国の孝子、 節婦義僕を調査し表彰された。その折に孝子離も有司に認められ役人に招かれて、いろいろとご下問があった。

役人「あなたが父母に孝行をつくしている様子を話して下さい。」
籬    「私は孝行とはどんなことかよく知りません。」
役人「あなたが父母のお世話をしている様子を話して下さい。」
    「私の家は貧しくて、朝は今日一日どうして暮そうかと心配ですが、一生けん命働いて何とか一日一日を食べていっております。夕方になって今日一日生きられたことを喜び、朝は一夜無事に過せたことを喜び、毎朝天を拝みながら大きな自然のご恩を有難く思い、何とかこのご恩に報いたいと考えるだけでございます。朝から両親はお酒を喜んで飲みます。私はそれを見て疲れを忘れ、毎日の酒代をかせぐため一生懸命です。さびしいとも思いません。」

役人ととの問答はこのようでした。

 無学で一字も知らず、孝行はどんなことか説明することも出来ないですが、毎日毎日の姿は最高の孝行だと云うことのできる籬です。 世の中では賢婦烈婦の本を読み、人間としての立派な行について書かれ書物を読むことの出来る知識人が、かえって父母や姑をさげずみおごり高ぶる人がいます。この新風の女性と比較して見る時、その差はどれ程でありましょうか。
本当にけ高い花は荒野に咲いて人に眺められずに散ってしまい、美しく輝く珊瑚は海底にあって世の人々に認められずに終ることの多い世の中です。

 この度の朝廷の孝子節婦の表彰はただ僅かに賞品や賞金賞詞を与えられたに過ぎませんが、この美しいの孝順は時の藩主(佐賀本藩第8代明和7年 1770より文化2年 1805)鍋島治茂の著された「孝子伝」と共にいつまでも美談として後世の人を教え、発憤させ、善導して行くでありましょう。
(以上孝子籬については南楢崎区の故中村静夫氏より取材)

 

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