小野原旧窯の廃窯に伴い、古川形右衛門(古川製陶所の先祖)という人が明治44年に12室の登り窯を築いたことに始まります。上位の3室は幅4間(7.2m)以上もある大きなもので、当時は東洋一を誇っていたといいます。(野田伝「橘町の甕窯に就て」)。
製品は三石(540リットル)入りの大型をはじめ、大小様々の甕や鉢が焼かれていました。当時は県内でも珍しい自家用トラックで鹿児島の焼酎工場へ直送した(一般的には港から船積み)そうです。
この窯跡は明治時代の遺跡です。
黒酢仕込み風景
小野原旧窯の廃窯に伴い、古川形右衛門(古川製陶所の先祖)という人が明治44年に12室の登り窯を築いたことに始まります。上位の3室は幅4間(7.2m)以上もある大きなもので、当時は東洋一を誇っていたといいます。(野田伝「橘町の甕窯に就て」)。
製品は三石(540リットル)入りの大型をはじめ、大小様々の甕や鉢が焼かれていました。当時は県内でも珍しい自家用トラックで鹿児島の焼酎工場へ直送した(一般的には港から船積み)そうです。
この窯跡は明治時代の遺跡です。
平安時代末期になると、政治・社会の混乱が増し「末法思想」が広がりました。そんな時代背景の中で「ただ念仏を唱えるだけで往生がかなう」という浄土教は大変魅力的で、人々に浄土思想が広まりました。
経塚は、平安時代の人々がお願いごとをするために、経典を埋めて祈ったものです。2つの経塚は、神籠石調査の時に見つかりました。青銅製の経筒に金粉が塗ってあったらしいと郷土史『ゆか里』に書かれています。
時代的には平安時代前期にあたります。
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末法思想(まっぽうしそう)とは、釈迦の死後、仏教の教えが衰え、悟りを得る人がいなくなる時代が到来するという仏教の歴史観です。正法、像法の時代を経て、最後には仏教の教えだけが形骸化して残り、人も世も乱れる「末法」の時代に入ると考えられました。日本では1052年(永承7年)から末法に入ると信じられ、その不安感から浄土教が広まりました。
時代の区分
末法思想では、釈迦入滅後の時代を以下のように3つの期間に分けます。
日本の状況
Google AIによる概要 より
浄土思想とは、阿弥陀如来(あみだにょらい)の無限の慈悲によって、人々が死後に「極楽浄土(ごくらくじょうど)」という仏の国へ生まれ変わることを願う教えです。煩悩を抱えた人間がそのままでは悟りを開くことが難しいため、阿弥陀仏に救いを委ね、ひたすら「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と念仏を唱え、極楽浄土への往生を願うものです。この思想は法然(ほうねん)や親鸞(しんらん)らによって広まり、日本で広く民衆に受け入れられてきました。
浄土思想のポイント
歴史的発展
「経塚」は、仏教の経典を「経筒」という容器に入れて地中に埋納した場所です。経筒は経典を湿気や風化から保護するための容器で、銅製が主ですが、陶製や石製などもあります。経塚は仏法の滅亡を意味する「末法思想」が広まった平安時代末期から鎌倉時代にかけて盛んになり、仏の教えを未来に伝えるための「タイムカプセル」のような役割を持っていたと考えられています。
経筒(きょうづつ)とは
経塚(きょうづか)とは
Google AIによる概要 より
今から1300年以上前に造られた朝鮮式山城です。学者の間で神籠石が神様をまつる場所なのか、山城なのかが長らく議論されていましたが、山城だと初めて明らかにされたことで有名です。国史跡に指定されました。
663年の白村江の戦いの後、防御施設として造られた可能性が高く、約1.9㎞の列石(一部欠落)、アーチ状の第1・第2水門、東門、版築構造(図のように土を突き固めて作る工法)の第1土塁などがよく残り、立岩立岩付近が列石の原材料地と考えられます。
参照:㊹ おつぼ山神籠石 詳細解説
参照:橘町のみどころより 歴史シリーズ④ おつぼ山神籠石
参照:武雄市の文化財 おつぼ山神籠石のパンプレット
参照:おつぼ山神籠石 第一水門
参照:おつぼ山神籠石 第二水門
参照:おつぼ山神籠石 東門
時代的には古墳時代の遺跡です。
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神籠石は、北部九州を中心に瀬戸内地方にかけて分布する、山に築かれた古代の城跡である「神籠石(こうごいし)式山城」を指す遺構の総称です。特徴は、山中の尾根や谷を幾つか取り込み、外周に土塁を巡らせ、その土塁の根元に切石を並べた列石で囲いを作っている点です。山城の存在は確認されているものの、日本書紀などの古い文献に記載がないため、その目的や築城背景については未だ多くの謎に包まれています。
参照:神籠石(Wikipediaへ)
Google AIによる概要 より
白村江の戦いは、663年に朝鮮半島・白村江(現在の錦江河口付近)で、百済復興を目指す日本・百済連合軍と、唐・新羅連合軍の間で行われた海戦です。日本は唐・新羅連合軍に大敗し、百済は滅亡、日本は朝鮮半島への影響力を失うことになりました。
詳細:
Google AIによる概要 より
編集:橘町歴史研究会 宮下
「玉泉寺」という中世のお寺跡です。昭和12~13年頃、小学校敷地拡張の時、「応永35年」(西暦1428年)と彫られた硯が見つかりました。昭和の時代、忠霊塔の石垣下に小さな池がありましたが、その北側にあった石炭ストーブの倉庫(避病院跡)の場所と考えられます。
橘氏が長島庄(今の武雄市周辺)にやってきてから200年ほどたった頃になります。橘氏9代渋江公朝の頃と思われ、武雄では16代後藤正明が九州探題の渋川氏から塚崎・長島総地頭職を下知されています。郷土史家中島平一氏は「この時期、渋江の勢力が弱まり、幕府の混乱、九州探題の交代などにまぎれ長島庄の一部、花島・芦原等が後藤氏に帰属したのではないか」と推測されています。
参照:橘町のみどころより 歴史シリーズ⑦ 長島庄政所
参照:橘町のみどころより 歴史シリーズ㉙ 長島庄の成立ち
時代的には江戸時代の遺跡です。
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長島庄は、平安時代に京都の蓮華王院(れんげおういん)の領地として成立した肥前国(現在の佐賀県武雄市一帯)の荘園です。1172年(承安2年)以前には成立していたことが確認されています。
Google AIによる概要 より
「探題」とは、元々は仏教用語で経典の論題の選定や評定を行う役職を指しますが、転じて鎌倉幕府の「六波羅探題」や「鎮西探題」のように、幕府の出先機関の長官を指す言葉としても用いられました。また、室町時代以降には管領(かんれい)権を持つ広い地域の支配者を指すこともあります。
Google AIによる概要 より
「下知」は、上からの命令や指図を意味する言葉です。また、鎌倉・室町時代には、将軍や家臣が出した**裁判の判決や命令書(下知状)**そのものを指すこともありました。
Google AIによる概要 より
避病院とは、明治時代以降に流行したコレラなどの伝染病患者を隔離・収容して治療するために設置された病院です。当時は「伝染病隔離病舎」と呼ばれ、感染症の拡大を防ぐ役割を担っていました。現代では「感染症指定医療機関」として同様の役割を持つ医療機関がその機能を継承しています。
古川製陶所の奥にありました。明治36年に橘町上野の山口秀古と言う人が甕窯として築いた7室の登り窯です。鉢・甕・人形などが焼かれましたが、明治43年に窯を廃止したと記録にあります。
橘の甕は、上野の「本登り窯」などで、江戸後期から焼かれています。甕は空気をわずかに通すので、飲み水を貯めたり、焼酎や醤油などの醸造用として重宝されました。
橘の甕は、塩田や鳴瀬の港から積み出され、遠くは海外にも輸出されたそうです。
この窯跡は明治時代の遺跡です。
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塩田津とは、佐賀県嬉野市にある、長崎街道の宿場町と有明海の干満を利用した川港が交わる歴史的な商家町です。江戸時代に火災や風水害に強い漆喰で覆われた大型町家「居蔵家(いぐらや)」が発展し、塩田石工が造った恵比寿像などとともに、重厚で歴史的な町並みが形成されています。2005年には「重要伝統的建造物群保存地区」に選定され、現在もその歴史的景観が保たれています。
塩田津の特徴