伝承 動石(ゆるぎいし)

 地元で呼んでいる「片白かたしろカン山」。この山頂付近に消防用無線塔がふもとからも見えますが、そのすぐ近くにあります。管理用道路の終点から約50m下った所から山中に分け入ります。30mほど進んだ場所にお岩め岩が30cm程の距離で向き合い寄り添よりそうように立っています。

 このゆるぎ石振動しんどうすれば事変じへんおこると言い伝えられています。これは「貞観じょうがん18年(876年)に杵島きしまの軍団が振動しんどうしたので、隣兵りんぺい警護けいごさせた」との肥前ひぜん風土記ふどきの記事がもとになっているようです。

ゆるぎ石

時代的には古墳時代後期の頃の逸話です。

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豆知識 肥前国風土記(ひぜんのくにふどき)

 奈良時代初期に編纂された肥前国(現在の佐賀県長崎県)の風土記である。現存する5つの風土記のうちの1つ。

 風土記は元明天皇和銅6年(713)諸国に命じてその国名、郡名、郷名、またその郡内に生産する銀銅、彩色、草木禽獣魚虫等の種類名称をくわしく記録し、又その地方の古老が昔から言いつぎ語りついできた古い伝承や変わった事蹟等を集め整理して、これをまとめた書冊にして奉れといっている。

Google AIによる概要 より

参照:肥前国風土記 現代語訳
参照:肥前国風土記 原本

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遺跡 おつぼ山南麓遺跡

 弥生やよい時代(今から2千年以上前)の甕棺かめかん石蓋いしふた石棺せっかんが見つかっています。「道路にあるため 露出している甕棺かめかんはほとんど破損しているが 須玖式すぐしきのもので、石蓋いしふた甕棺かめかんも存在していたことが知られる。この甕棺かめかん埋蔵まいぞう範囲はんいは明らかでない。」(佐賀県文化財13 p438)と書かれています。

 古代東川ひがしかわ潮見川しおみかわは、この一帯で合流ごうりゅうして大きな川となり、縄文じょうもん海進かいしんの頃には河口かこうであったと考えられます。当時の人々は、ここから東の山麓さんろく一帯に狩猟しゅりょうりょうをしながららしていたと考えられます。

参照:橘町の見どころ 歴史シリーズ ⑩
参照:橘町の見どころ 歴史シリーズ ⑪
参照:橘町の見どころ 歴史シリーズ ㉒

時代的には弥生時代の遺跡です。

杵島山麓の小河川と縄文遺跡

杵島山麓の小河川と縄文遺跡

石蓋石棺墓の例(吉野ヶ里遺跡より)

石蓋石棺墓の例(吉野ヶ里遺跡より)

草場橋からおつぼ山南麓遺跡

草場橋からおつぼ山南麓遺跡

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豆知識 須玖式土器(すぐしきどき)

 須玖式土器は、弥生時代中期、特に北部九州に分布した、赤く磨き上げた丹塗磨研土器(にぬりまけんとき)を代表とする弥生土器の一種です。特徴は、文様をほとんど持たない洗練されたシンプルな形状と、美しい磨き上げられた表面にあります。この土器は、祭祀などの非日常の場で使われたと考えられています。

Google AIによる概要 より

豆知識 縄文海進(じょうもんかいしん)

 縄文海進とは、縄文時代に起こった、現在よりも海水面が高くなった現象です。約6000年前頃に最高潮を迎え、その時期には現在の海面より2~3m(有明海沿岸は最大約5m程度)ほど海水面が高かったと推定されています。この海水面の上昇により、本来の海岸線が内陸深くまで入り込み、広大な入り江や内湾が形成されました。

Google AIによる概要 より

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遺跡 おつぼ山第一水門遺跡

 旧石器時代きゅうせっき縄文時代じょうもんじだいにかけての遺跡です。石刀・ナイフ型石器・掻器そうきなどが見つかりました。また神籠石こうごいし第一水門の柱穴から高式たかしきという縄文土器じょうもんどきも見つかっています。

 高式たかしき土器とは、土器の表面に縄目なわめもんが残る土器です。隣接りんせつする草場遺跡くさばいせきからも旧石器時代の石器がたくさん見つかっており、この一帯は、縄文時代じょうもんじだいには人々が暮らしやすい場所だったと考えられます。

水門の北部からは、中世の社寺の石積跡も見つかっています。

時代的には旧石器時代の遺跡です。

阿高式土器文様(熊本県阿高)
隣接する草場遺跡の石器
おつぼ山神籠石 第1水門跡

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豆知識 掻器(そうき)

 掻器とは、旧石器時代に使われた石器の一種で、主に皮をなめすために使われた道具です。剥片(はくへん)と呼ばれる石の破片の端を加工して作られ、刃の部分は厚く、丸みを帯びているのが特徴です。

掻器(出典:世田谷デジタルミュージアム)

Google AIによる概要 より

豆知識 阿高式土器(あだかしきどき)

 阿高式土器とは、縄文時代中期(約5000年前)に九州で特徴的に作られた深鉢形土器です。指先状のもので描いた「太形凹線文(ふとがたおうせんもん)」と呼ばれる文様が口縁部から胴部にかけて施されているのが特徴で、底部の外側には木の葉やクジラの脊椎骨の圧痕が見られることがあります。

Google AIによる概要 より

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遺跡 形右衛門窯跡

 小野原旧窯きゅうかま廃窯はいように伴い、古川形右衛門ぎょううえもん(古川製陶所の先祖)という人が明治めいじ44年に12室の登り窯のぼりがまを築いたことに始まります。上位の3室は幅4間(7.2m)以上もある大きなもので、当時は東洋一とうよういちほこっていたといいます。(野田伝のだ つたえ「橘町の甕窯かめかまついて」)。

 製品は三石さんこく(540リットル)入りの大型をはじめ、大小様々のかめはちが焼かれていました。当時は県内でもめずらしい自家用じかようトラックで鹿児島かごしま焼酎しょうちゅう工場こうじょう直送ちょくそうした(一般的いっぱんてきには港から船積ふなづみ)そうです。

この窯跡は明治時代の遺跡です。

小野原旧窯跡・形右衛門窯跡位置図
甕利用のイメージ写真
黒酢仕込み風景
形右衛門窯跡の甕
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