上野本登窯跡・上野新窯跡

 武雄市橘町大字永島字南上野にあり、現況は檜林である。出土物は陶器(鉢・甕・土管)である。いずれも上野集落の南にある標高288mの山から派生した丘陵の先端部にあり、北斜面に築窯されている。(図1)。

図1 窯跡の位置図

〈上野本登窯跡〉
 弘化5年(1848)に卒した野田亀右衛門が築窯し、5代続き、昭和26年に廃窯となる。本来17室からなる登窯であったが、大正5年に下部を取り壊し、9室としている(野田伝「橘町の甕窯について」)。現在は原野で、階段状に残存している( 図2)。またこの窯のすぐ左側に小塚があり、「八天狗」外2基の石祠があり、陶製の灯ろう棹石が現存する。(図3)。

図2 上野本登窯跡(野田伝方前)写真大甕は4石甕

く上野新窯跡>(図4)
明治中期頃の築窯と考えられ、陶工古川形右衛門が明治37年に小野原旧窯に移動しているので、その頃の廃窯と考えられる。11室程の登窯で、上野本登窯から生製品を運んで焼造したりもしていたそうである(「橘町の甕窯に就て」)。ここでは、甕のほか鉢や片口・瓦なども焼造されていたことが、物原からうかがえる。

【写真解説】
2は本登窯跡横の陶製灯ろうの樟石である。正面に「奉献」、右側面に「慶応四戊辰歳、三月吉日」、左側面に「上野村、瓶山釜焼中、細工小田隈八」の刻銘がある(図3)。
4は新窯跡表採の甕口縁片である。口縁部の外反は、中央の2条の沈線から上が強い。口唇部は折り返してやや肥厚させている。
5は新窯跡表採の注口をもつもので、比較的大きな製品である。注口は短く小さい。ヒモ状粘上を貼りつけてあり、上方で粗くつないでいる。(図5)

追記:平成10年上野本登窯調査報告書(市道改良)から
隣接する市道の改良に伴って「土層断面図の作成と残存する物原の遺物を採取することを目的」として調査が行われた。断面図(図6)とその写真(図7)及び採取された遺物(甕を主体とする陶器と染付)を紹介する
(図8)。

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⑭ 上野玉島窯跡

 玉島古墳の道向かいの山口さん方の前を通って登った檜林の中にあります。橘町内で2番目に古い窯と伝えられており、明治初期に築窯されたと推定される登窯で昭和22年には廃止されました。

 窯頭には「甕山神」と彫られた神様が祀られ、下部に明治12年5月と発起人2名、世話人4名の名前などが刻まれています。山口誠也さんの父秀吉氏が焼いていたと資料に書かれています。

図1 上野本登・玉島窯跡位置図

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 町内で2番目に古い窯と伝えられており、明治初期に築窯されたと推定されている。7室からなる登窯で、昭和22年に廃窯となる(「 野田伝著「橘町の甕室窯について」)。
園窯の上位に自然石に「甕山神」と彫られた山神が祀られている(図3)。

【写真解説】
1は玉島窯跡上位の「甕山神」碑である。下部に「明治十二年五月吉辰」のほか、「発起人」2名の名があり、基壇には「世話役」4名、「細工人」8名の名が刻まれている。
3は玉島窯跡表採の甕口縁片である。口縁部は外反気味で、日唇部は内側に折り返して肥厚させている。口縁部中央に2条、肩部に3条の沈線を施している(図4)

上野玉島窯跡登り口

追記:橘歴研野田郷による小野原古窯資料から
「 山口誠也氏所有地であり、氏の祖父山口秀吉氏が、明治15年から昭和15年まで焼いていた。その以前から窯はあったのを引き継いだと言われている。「甕山神」の石碑は明治12年建立の銘有。確かな記録はないが、明治初期頃の始まりと推定する。明治末頃は、東島佐一・岩永利八と3人で焼いていた。また、大正8年頃からは末尾貞市氏が全部を借りて一人で焼いていたが、息子貞雄氏は昭和22年に廃業した」とある。

 

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