遺跡 おつぼ山石棺群

 石棺せっかんとは、石を加工してひつぎにしたお墓のことです。

神籠石こうごいし調査の時※1 箱式はこしき石棺が2基見つかりました。中央の1基から直径9cm※2 仿製鏡ほうせいきょう(日本で造られた鏡)が見つかっています。

 また別の石棺せっかんから人骨も見つかっています。調査以前にも1基が八郎社はちろうしゃの南に露出していましたので、全体では3基みつかっています。弥生時代から古墳時代にかけての遺跡です。

※1橘町郷土史ではミカン園造成時、ゆか里では神籠石調査時の発見と記載

※2橘町郷土史では直系9cm、ゆか里では10cmと記載

時代的には古墳時代の遺跡と思われます。

24号おつぼ山石棺墓

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豆知識 仿製鏡・倣製鏡(ぼうせいきょう)

 仿製鏡・倣製鏡)とは、弥生時代後期から古墳時代にかけて、東アジアで主流をなしていた中国の青銅鏡を模倣して日本で作られた銅鏡のことです。中国大陸で作られた「舶載鏡(はくさいきょう)」と呼ばれる鏡が日本に伝わり、それを参考に日本の技術で鋳造されたもので、日本で作られたものが特に多いのが特徴です。

特徴
  • 模倣品であること
    中国の銅鏡の文様や形をそのまま模して作られています。
  • 日本製であること
    日本列島で製造された銅鏡です。
  • 弥生時代後期から古墳時代に作られた
    弥生時代後期から古墳時代にかけて制作が盛んに行われました。
  • 副葬品として出土
    古墳時代には有力者の権威の象徴として、墓に副葬品として埋められることが多かったと考えられています。

 Google AIによる概要 より

舶載鏡(はくさいきょう)

 舶載鏡とは、古代に中国で製造され、日本に伝来した銅鏡のことを指します。弥生時代から古墳時代にかけて、中国からの様々な種類の舶載鏡が伝わり、日本の古墳時代における銅鏡文化の発展に大きな影響を与えました。これらの鏡は、祭祀用具として使われるだけでなく、中国との文化交流の証拠としても重要な考古資料となっています。

舶載鏡の時代と種類

  •  前漢(ぜんかん)の時代の精白鏡(せいびんきょう)や、後漢(ごかん)の時代の四神鏡(ししんきょう)、内行花文鏡(ないこうかもんきょう)などが伝来しました。
  •  中国の三国・六朝(さんごく・りくちょう)時代の神獣鏡(しんじゅうきょう)や画像鏡(がぞうきょう)など、多様な鏡が多数発見されており、特に三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)は有名です。

舶載鏡の意義

  • 文化的交流の証拠
     舶載鏡は、当時の日本と中国との間の交流、特に大陸からの高度な文化や技術の伝播を具体的に示す資料です。
  • 祭祀の道具
     この時代の鏡は、顔を映す実用品というよりも、その輝きを用いて太陽光を反射させるなど、神聖な儀式や祭祀に使われたと考えられています。
  • 国産鏡(倭鏡)の基礎
 舶載鏡は、日本で独自のデザインを持つ国産鏡(倭鏡(わきょう))が作られる際の模倣の対象ともなり、日本の銅鏡文化の発展の基礎を築きました。
 
 Google AIによる概要 より
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遺跡 おつぼ山 第二経塚

 橘公民館の裏から登った所に「靭山うつぼやま神社」の石祠いしほこらがありますが、2つの経塚きょうつかはその前にあったそうです。「佐賀県の文化財13」という調査報告書には、「第1経塚に近い列石内部にも経塚きょうつかが発見されているが、すでに掘り起こされ遺物は存在していない。」と書かれ、出土遺物はなかったようです。

 うつぼとは矢をさして背負う道具(下図参照)の事です。鎮西ちんぜい八郎為朝ためともがおつぼ山の頂上に城を築いたという伝説が残り、弓の名人であった為朝ためともの死後、愛用のうつぼを埋めて神社として為朝ためともをしのんだと郷土史「橘町史跡めぐり」にあります。

靭神社うつぼじんじゃとは別に、第2水門から登った所に八郎はちろうさん(八郎社)もまつってあります。)

時代的には平安時代前期にあたります。

参照:おつぼ山第一経塚
参照:鎮西八郎為朝 Wikipedia
参照:八郎社石棺遺跡 佐賀県文化財調査報告書 PDF p437

靭社の祠
写真② 靭山石祠の祭神
靭イラスト
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史跡 おつぼ山神籠石

 指 定 史 跡:おつぼ山神籠石

 指定年月日:昭和41年6月21日

 追   加:平成16年9月30日

 古代山城であるおつぼ山神籠石は、ヤマト政権・大和朝廷に関わる土木遺産です。7世紀頃に朝鮮や中国の情勢に応じて築かれた防衛施設といわれています。また日本における「城」という軍事に特化した専門施設の登場、朝鮮半島の築城技術の導入という点で、日本の城郭史および東アジアの交流史上重要な遺跡です。

 おつぼ山神籠石は、橘町南部で国道498号の東側にあります。

第1水門

 昭和37年(1962)に全国で8番目の神龍石として発見され、翌38年に登掘調査が行われました。その結果、朝鮮式の山城であることが確認され、それまで神城説山城説で大論争をしていた神龍石の性格に終止符を打つ遺跡として学史にその名を残しています。
 おつぼ山神籠石の列石は、総延長が1866m ありこのうち北端から南西部にかけて列石が抜けて確認できないところがあります。
 おつぼ山を取り巻いている列石の個々の石はおよ高さ70cm 、厚さ40cm で、残石の数は1313個です。

 列石の前面には3m 間隔で10度内傾させた穴があり、この柱穴を埋めるために方1m の穴が掘られていました。 さらに第1土塁の前面では、この穴列と列石の間に小礎石が1m 間隔で発見されています。 柱穴の小石の柱を合掌式に組み合わせて防御柵を構成したと考えられています。確認された柱穴のうち、第1水門前からは柱根3本が出土しています。 おつぼ山神籠石に関する遺物としては唯一のものです。 

第2水門

 列石に使用された石材は、安山岩質の凝灰角礫岩(ぎょうかいかくれきがん)と呼ばれる石で、杵島山の各所でみられるものです。 おつぽ山に近い立岩付近がその原石採集加工地とみられています。
 列石の上には幅9m の土塁があり、谷間には水門が設けられ、門跡も2箇所が確認されています。土塁の基礎石としての列石は複雑な山の地形に応じて曲線を描いています。特に、水門の部分がおつぼ山神籠石ほど曲線を描くものは他に例を見ない特徴的なものです。
 神籠石は文献に出てこない遺跡ですので、その築造の時期については異論がありますが、七世紀後半の白村江の戦い(663年)に関連させる説が有力です。

 近年の研究成果では、九州を中心とする神石型山城と瀬戸内海沿岸地域の石山城に区分し、大野城や基肄城などの古代山城とともに百済の大型の山城を参考に造られたことが推測されています。

出典:新・ふるさとの歴史散歩 武雄(平成19年)、橘町の見どころシリーズ(令和7年)

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◆ R05.10.15 潮見神社おくんちの準備ができました。

10月19日は橘町のおくんちです。今日は町の各区より数名と町の相撲連盟の方々が参加してその準備作業を行いました。
境内の草刈りと清掃それに御神輿の台車の準備。鳥居の飾り付けにしめ縄づくり。そして奉納相撲場の清掃と準備などができました。あとは本番を迎えます。
みなさんお疲れ様でした!

● 画像集 『潮見神社おくんち準備
       (橘町マルチメディアギャラリー)へ

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