兵庫茂安の潮見川改修工事

「新・ふるさとの歴史散歩 武雄」より抜粋

成富兵庫は、豊臣秀吉の朝鮮出兵の時、鍋島直茂に従軍して、城を築などの土木工事の指揮をしました。江戸時代には、佐賀藩の各地に土木工事の功績を残しています。 橘町でも潮見川改修工事をして、水田耕作の面積を広くする功績をのこしました。 

この当時の橘は、三法方村と呼ばれ(三方潟、三法潟、三方方とも書かれている)、蓮池藩、武雄鍋島領、佐賀本藩の三者からの掟が適用されていたからでしょう。 成富兵庫は佐賀本藩の人であり、二俣、 鳴瀬、沖永への取水を目的として、潮見川の改修工事に取り組んだのです。これまでの川の幅を広くしたり、深くしたりして川自体を貯水池としました。 又、洪水時の対策として、野越や、堰を設けました。 この時、町北 一部の二俣 沖永、鳴瀬で60町歩が開かれました。 潮見川の上流にあった「二の関」や「内出し」は閉鎖されて、できるだけ貯水できるようにしました。 

成富兵庫は潮見の長泉寺を宿泊地として、七ヵ年という長期にわたる工事を寛永2(1625)に完成させました。 長泉寺には今も成富兵庫の位牌が祀られ、境内には供養塔も建っています。 また、二俣区では、毎年918日兵庫祭りを行い、感謝の心を表しています。 

大日堰東の観音堂にある灌漑・治水竣工碑

長泉寺境内入口に立つ供養塔

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菊池経直公の墓碑銘

「郷土誌 橘町史跡めぐり」より

「公は菊池第五代の主なり。鳥羽院の武者所に候して近衛に任じ、勢威四隣に振う。偶ゝ潮見社の笠懸神事に来りて此の地にて薨ず。夫人落飾し庵を結びて菩提を弔うという。爾来星霜八百歳墳墓煙滅に頻せんとす。図らずも嘱目、史伝を得たり。遺民即ち浄財を献じて域 (墓地)を買収し茲に再建す。 鳴呼先君の遺民と幽契永に尽きざるなり。」 

昭和39年6月1日 
菊池神社千種宣夫謹誌 

第五代城主 菊池経直公夫妻の墓

 

  • 菊池経直について
    鎌倉時代熊本県菊池郡一帯の領主 (菊池家第五代)、父は菊池氏第四代経宗、母は大納言宣家の娘である「肥前の守」と称し幼名七郎と呼ぶ従四位下を賜る。
    天永2年正月生(1111保安三年(1122武者所に伺候し、鳥羽天皇より鷹の羽を賜る。これにより「そろいたか」を家紋とす。文治26(1186)28日、肥前橘に笠懸神事に参加して死す (行年76才)墓は潮見にある。
    妻は平井中将の娘、経直の死により庵をつくって菩提を弔いこの地にて死す。 潮見に夫婦の墓がある。
    子供が二人あった。長男の隆直は菊池城第六代領主となる。二男は赤星十郎経俊と名乗る。文治2年は今より800年以上も前である(公業入国より以前のことである) 
  • 橘町の笠懸について
    このように潮見神社の笠懸が文治二年の段階で熊本からまで参加していたことを考えれば開始はもっと古いと思われる。
    (武雄神社の矢ぶさめの開始が文治二年である)
     
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潮見古墳について

この古墳は潮見山の東山腹(潮見神社中宮の裏山)に築かれた六世紀中頃の古墳である。 
石室の全長11m、羨道の奥行7.6m、幅1.5~0.9m、高さ1.3m、玄室は奥行3.4m、幅2.5~2.26m、高さ2.7mである。 
床は石敷で、奥の壁に平行して屍床(ししょう)があり、その床の左右に石が立っている。 

この古墳からは豊富な副葬品が出土しており、特に武具馬具等では、全国的に珍しい出土品があり、貴重な史跡である。昭和54年3月31日県指定史跡になっている。 
副葬品は次の通りである。(遺物は奈良の藤の木古墳展にも出品された 藤の木古墳・潮見古墳の二つは、ほぼ同時代で、特に馬具は全国的にも貴重とされている。) 

  • 馬具類・・・五鈴付杏葉(ぎょうよう)四、鏡板四、馬鐸(ばたく)三、雲珠(うず)一、轡鉄(くつわ)若干、鉸具若干(馬具は口絵参照)
  • 武具・・・桂甲一
  • 武器・・・鉄刀八、鉄刀子(とうす)四、鉄鉾(ほこ)五、鉄剣二、鉄鏃(ぞく)若干
  • 装身具・・・冠一、彷製鏡一、耳環二、管玉一
  • 工具・・・鎚(やりがんな)二、鉄斧(ふ)二、 カスガイ二
  • 土器・・・須恵器壺一、須恵器杯一、須恵器片若干、土師器(はじき)片若干 
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六地蔵

六地蔵について

場所:橘町南楢崎地区(武雄種鶏孵化場前)

  • 六地蔵ってなんのためにあるの? 
     六地蔵や道祖神は集落の入り口などに建てられ、外からの悪疫などが入りこまないように建てたとされます。郷土史『橘町の史跡めぐり』の著者は「以前、この奥に宗泉寺(茂手)の庵寺があったためか、またこの道が昔、長崎街道であったためか」と想定されています。

  • いつ頃からあるの?
     前出の著書には「石の風化が進み刻字その他、読み取ることができない」と書かれています。一般的に六地蔵が肥前の国で盛んになったのは、室町時代から江戸時代にかけてとされます。

  • だれが造ったの?
     記録が無いので、いつ、誰がたてたかは分かりませんが、町内各地にある地蔵様は、その周辺で暮らす人々が、地域の安全と平和を願ってまつったものとおもわれます。

  • ほかにもあるの?
     六地蔵は、前出の著書によると、北楢崎(どうざま墓地)、潮見(長泉寺参道)、大日(大日さん境内)、鳴瀬(角醬油屋横の観音様)、片白(長宝寺下ほか)など各地にまつられています。

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