橘町の古代官道

図① 橘町を通る古代官道推定線
古代官道とは、奈良時代(710年~794年)に設置された中央(奈良)と各地の国府や郡衙(役所)をつないだ道のことです。
佐賀県には、佐賀市、小城市、多久市を通り、北方町の志久峠を越え、右図のように橘町では杵島山のふもとを通っています。
橘町を詳しく見ると北方町の熊野神社の前から鳴瀬のいぶき村の前へ山越えをし、現代の高速道の側道沿いに南片白の東福寺下を通っていたようです。
七鑓坂は、全国の古代官道を調査した木下良先生が現地を見て「これこそ古代官道だ」と認定された場所です。
(新・ふるさと歴史散歩図を一部修正)

写真1 七鑓坂

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① 古代官道とは

- 奈良時代(710~794)に設置された中央(奈良)と各地の国府や郡衙(役所)をつないだ道です。
- 都と地方を最短距離で結び、物流や軍隊の移動をスムーズに行うのが目的です。
- 全国規模で整備され、直線部分が多いのが特徴です。
- ルートは、現代の高速道路と重なる部分が多くあります。(九州の官道推定マップ/古代の西海道のルート参照)
- 九州では現在の高速道路網が総長6500キロメートル、古代官道は6300キロメートルになります。
- 駅路はその重要度から、大路、中路、小路に区分されました。
当時、国内最重要路線として中央と大宰府を結んだのが山陽道で、西海道の一部が大路でした。中央と東国を結んだ東海道・東山道が中路、それ以外が小路でした。
② 古代官道の駅路(ウィキペディアより抜粋)

- 約16km毎(30里)に駅家(うまや)が置かれ、そこには伝達用として馬が用意されました。
- 駅家に置く馬(駅馬という)は、大路で20頭、中路で10頭、小路で5頭でした。
- 杵島の駅には5頭の馬がいたことになります。
- 駅制とよばれる古代道路におけるシステムによって運用されました。
- 全てが一律に30里であったわけではなく、山陽道は平均駅間距離が一般駅路の3分の2程度でした。
- 水駅や大きな川沿いの駅には駅船も置かれていました。
- 平安時代の法令集である『延喜式』の「諸国駅伝馬」の条項に、全国66国2島(壱岐・対馬)における国別の駅名と駅馬の数が記載されており、その当時の総駅数は402駅あったとされます。
③ 肥前の駅 諸本から
- 延喜式によると佐賀より西には多久の高来駅、杵島郡の杵島駅、藤津郡の塩田駅、彼杵郡の彼杵駅が置かれました。
- ほぼ直線の道路を整備しており、佐賀平野では直線部分が17kmにもなります。
- 肥前国の国衙(国府)があった大和町尼寺から多久高来まで約16kmです。
- 高来から北方町志久峠、医王寺、鳴瀬いぶき村付近、立石までは約16kmです。
- 塩田は吉田まで16km、吉田から彼杵まで16kmと橘町まちづくり協議会では推定しています。
- 塩田については、県の古代官道調査報告書(H7.3月)
図③ 肥前古代官道想定図では塩田を候補としています。 - 彼杵の宿の想定場所として、今の大村市福重の紹介ページでも馬込(馬を泊めておく所)、立石(道標の石がある所)などの地名が残っています。
④ 駅のルート推定
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図③:肥前古代官道想定原図「事典日本古代の道と駅」
(木下良より)をベースに着色しています
図④:肥前の古道地図「風土記の考古学」(小田富士雄編)から
★塩田・彼杵間や唐津が木下良の図とは異なっています。