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十八夜観世音 木造金箔塗座像 中山悟氏所有
この観音さんについては次のようなお話が語り伝えられている。
『この観音さんは、今から200年程前享和年間(1801~1803)には東川登町に祀ってあったが、どうしたものか怒り易く咎めて仕方がないので、村中の人びとが相談し、遂に川に流すことにし、蓮の葉にのせて潮見川に流してしまった。
その頃、楢崎の中山寅一氏の5・6代の先祖にあたる人が、「余は観世音菩薩なり、今潮見川に流れている。速かに勧請すべし。」との夢を3夜連続して見られたので不思議に思って潮見川を探した所、今の鐘が渕(感応院の下付近)に蓮の葉の上に硯箱と共に乗っている佛様が浅瀬に流れついておられた。 中山氏は大変喜び直ちに勧請し、今の所に祭られた。その日は7月18日(新暦8月18日)の夜であったので十八夜観音と呼んだ。この祭日にはよく雨が降るといわれている。また、この観音さんはご開帳の時自分が出たくないと荒れるので今まで数度しか開いたことがないとのことである。』
この観音祭は昭和30年頃までは区全戸で祭っていたが国有地の拂い下げにより堂宇も共に中山清六氏の所有となったので今は中山家で祭られている。昭和の初期までは、祭り当日は感応院より見えてご祈祷をなされていたそうである。
現在の堂宇は明治期に改築された。建築材は「今の白山権現の境内の樹木を伐採製材して使用された。」とのことである。堂宇はりっぱな造りで軒燈、鈴など吊されている。
境内の石の手洗鉢には「当村若者中 中村和七(中村義昭氏の曾祖父) 中山定一 武雄町花菱の先祖」と刻んである。二人は当時の若者代表であったと思われる。

