孝女の籬墓碑

下記解説のついては、『郷土史 橘町史跡めぐり』橘町歴史研究会 編  P242 より引用しています。

孝女の籬(まがき)墓碑(中村静夫氏所有地にある)

更に南側台地の尾根を進むと、山林の中に孝女籬の墓碑がある。 は文化年間(江戸時代1804年~1817年)の人で貧しい小作農の家に生まれ、病床の父母によく孝養をつくした。
文化11年(1814年) 朝廷において全国の孝子、節婦義僕等を表彰された時、は孝子として表彰の栄に浴した。当時の佐賀本藩藩主鍋島治茂は特に籬のため「孝子伝」を著し、広く世に紹介された。
墓碑は高さ3mにも及ぶ立派な石碑で、の顕彰文も刻んであるが風化が進んで読みにくい。(文中藤津郡楢崎村という言葉がある。文化のころ楢崎村は藤津郡に属していた)
この墓碑は大正12年3月15日学制発布50周年の記念事業で建立されたものである。(当時橘小学校校長山口良吾氏)

時代的には江戸時代後期の碑です。

 

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孝女籬について(孝女伝より)(原文は、漢文調の美文ですが、平易に意訳させていただきました。)

 文化の頃、藤津郡楢崎村(現在は武雄市橘町南楢崎)に弥右衛門と言う百姓がいた。他人の田畑を小作して僅かに生計を立てていたが、勤勉家でもない上に夫婦揃って大の酒好きであったからいつも貧乏であった。近所の人からも「飲右衛門」と言われ嫌われ者であった。
 ところが「鳶が鷹を生んだ」とでも言うのであろうか弥右衛門夫婦の間に擁と言う孝行の一人娘があった。籬は人の十倍も孝行娘で、そのうえ千人に一人も居ない程の美人であった。家が貧しかったので幼少の頃から糸を紡ぎ機を織って父母の酒代の足しにしていた。しかし、運命の魔神はその位では許さなかった。縮が十才になった時、母が突然血暈症にかかり、病床に臥したのである。籬の心配はそれこそ大変であった。それ以来、縮はか弱い細腕で一家の生計を支えた。 或る時は他人の着物を洗濯し、或る時は荒れた田畑を耕して親子が何とか食べていけるように働いた。 籬は苦しい生計の中から両親の好き酒を用意することを一日も忘れなかった。そして、両親が喜んで酒を飲んでくれるのを見て一日の疲労を忘れ、神に感謝するのであった。しかし、籬の一日はまだ終りません。帯を解く間もなく、病床の母を看病し、一晩中按摩して夜を明かす日があった。母の病が悪化すると、賃仕事に出ないで看病した。
すると早速困るのが酒代です。 は事情を酒屋に話し酒を借りて両親にすすめた。籬は酒代を払うために僅かの時間を惜しんで今までにも増して働いた。

 籬が19才になった時、結婚話があった。しかし「自分が他家に嫁ぐことになれば自分だけは幸せに暮せても父母の世話は誰がするでしょうか。自分の他に誰も世話する者はありません。」籬はこう言って涙を流して結婚の話を断った。籬も娘盛りである。 誰が好んで花を咲かせないはかない生活を選ぶ者が居りましょうか。前は自分の運命の悲しい境遇を考え、人の妻になることのかなわないことを覚悟していたのである。人間の悲哀もこれ程までの痛切を極める境遇になれば、宿命と諦め、深い沈黙と尊い犠牲の中に一筋の光明のさすことを願う外はなかった。
 こうしては結婚できない悲しみを秘め、酒好きの父につくし、病床に苦しむ母の看病、一家の生計を支えるための過酷な労働と四重苦に耐え、ただひたすら努力を続けていくのでした。

 文化年中、朝廷におかれては有司に命じて、日本全国の孝子、 節婦義僕を調査し表彰された。その折に孝子離も有司に認められ役人に招かれて、いろいろとご下問があった。

役人「あなたが父母に孝行をつくしている様子を話して下さい。」
籬    「私は孝行とはどんなことかよく知りません。」
役人「あなたが父母のお世話をしている様子を話して下さい。」
    「私の家は貧しくて、朝は今日一日どうして暮そうかと心配ですが、一生けん命働いて何とか一日一日を食べていっております。夕方になって今日一日生きられたことを喜び、朝は一夜無事に過せたことを喜び、毎朝天を拝みながら大きな自然のご恩を有難く思い、何とかこのご恩に報いたいと考えるだけでございます。朝から両親はお酒を喜んで飲みます。私はそれを見て疲れを忘れ、毎日の酒代をかせぐため一生懸命です。さびしいとも思いません。」

役人ととの問答はこのようでした。

 無学で一字も知らず、孝行はどんなことか説明することも出来ないですが、毎日毎日の姿は最高の孝行だと云うことのできる籬です。 世の中では賢婦烈婦の本を読み、人間としての立派な行について書かれ書物を読むことの出来る知識人が、かえって父母や姑をさげずみおごり高ぶる人がいます。この新風の女性と比較して見る時、その差はどれ程でありましょうか。
本当にけ高い花は荒野に咲いて人に眺められずに散ってしまい、美しく輝く珊瑚は海底にあって世の人々に認められずに終ることの多い世の中です。

 この度の朝廷の孝子節婦の表彰はただ僅かに賞品や賞金賞詞を与えられたに過ぎませんが、この美しいの孝順は時の藩主(佐賀本藩第8代明和7年 1770より文化2年 1805)鍋島治茂の著された「孝子伝」と共にいつまでも美談として後世の人を教え、発憤させ、善導して行くでありましょう。
(以上孝子籬については南楢崎区の故中村静夫氏より取材)

 

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八郎社(八郎さん)

下記解説のついては、『郷土史 橘町史跡めぐり』橘町歴史研究会 編   P172 より引用しています。

八郎社(八郎さん)

 源八郎為朝の遺跡としては、おつぼ山の頂上に「八郎さん」と称する為朝をお祭りした神祠がある。観音開きの戸のある石祠で文字は何も見えない。

 9月1日は八郎さんの祇園である。当日はおつぼ山山頂の祠一帯を清掃し、潮見神社から御幣をいただいて神前に供え、祭事を行う。この地区若者の手で鐘や太鼓を頂上まで運び上げ神前に浮立を奉納する。ここの山道は急坂でただ登るだけでも苦しいのに、神に奉仕しようとする若者の純真な気持がこのような祭を遂行するのであろう。後は天神さんの境内で夜遅くまで浮立をする。

 今はおつぼ山の頂上は檜の造林が行われ、展望がきかないが、昔八郎為朝は「この頂上から弓を射て黒髪山の大蛇を退治した」と云う話が語り伝えられている(中村常雄氏の話 おつぼ山~黒髪山 距離10㎞)

 

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小野原と源八郎為朝とはどんな関係があったのか

 為朝は源為義の子で、九州に下向したので鎮西八郎為朝とも呼んだ。乱行が多く父為義を大変困らせた。為朝の乱行によって父為義は官を解かれたこともあった。(久寿元年)

 保元の乱(一二五五年 保元元年)では為朝は院方に属し、敗れたので父や平忠正は斬られたが為朝は若年のため伊豆大島に流され助かっている。保元の乱の前々年(久寿元年 一二五四年)朝廷は太宰府に命じ鎮西の諸勢力は為朝に助力することを禁じている。当時為朝は九州に下向していたのである。

 武雄市では、為朝が若木町に舘を造り居住したという言い伝えがある。自分の舘を御所(天皇の御所になぞらえた。今は地区の名前になっている)と呼ばせた。また、弓かけの松の伝説も残っている。
 中村常雄氏(元小野原区長)によると為朝はその頃、小野原にも来ておつぼ山の頂上に城を築いたと云うことである。おつぽ山はその昔神籠石が築かれた所で水も豊富であり、城を築く場所としては絶好の場所であったと思われる。こう言ったことで村人とも親しく交わったのではないだろうか。
 このような関係でおつぼ山の頂上に「八郎さん」として祭られたらしい。この城との関係で北楢崎の入口(県道よりの分岐点付近)を今も城口(ジョウグチ)と呼んでいる。

 

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靭山神社

うつぼ山神社

 靱とは皮製でこれに矢をさし背負う道具のことである。為朝ためともは弓の名人であった。
為朝の死後、この地区にもらった為朝愛用の靭をここに埋め靱山神社とし為朝をしのんだのである。
石祠には正面に「靱山神社」と刻まれ、右側には「明治三十三年 庚午十一月建立」と刻まれていた。
蓮池藩であったためか「ダキミョウガ」の紋章がきざまれていて、戸は観音開きである。

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史跡 おつぼ山神龍石 南門・ 第一水門

おつぼ山神籠石 第一水門・南門

  • 古代山城における門

    城壁で囲まれた古代山城では城内に出入りできる場所が限られているため、城の防衛で要となる施設が「門」です。
    2000年以降、全国で発掘調査の例が増え、門が設置された場所(立地)、城壁との関係(上から見た平面形)、城門建物の構造などの面で研究が進んでいます。

    第一水門(東より見た写真)石垣アーチの先が南門跡

    平面図

  • 南門の見どころ

    第一水門傍で発見された門は「南門」と呼ばれています。
    水門の傍に設けられるタイプで、城壁の途中に設けられる一番シンプルな平面形の、掘立柱建物を設けた門です。
    水門を利用した石壁と、城を取り囲む土塁の土壁に挟まれた造りが特徴です。

    第一水門 西側裏から見た写真

  • 第一水門の見どころ

    おつぼ山の東側で見つかった水門は 「第一水門」と呼ばれています。 この水門は飛鳥時代初頭に伝えられた朝鮮半島の石材加工技術によって築かれています。 当時の日本列島で最先端の土木技術で、その特徴はブロック状に加工した石を組合せる隙間のない石積みです。 日本では雨対策として、自然石・割れたままの石を利用した隙間のある石積みが主流で、おつぼ山のような完全に加工した石による石垣が登場するのは江戸時代後期になってからです。

    水門

  • この古代山城に関する唯一の遺物、 柱根

    第一水門の前では、柱根3本が発見されています。 排水口近く、3m間隔で見つかりました。
    第一号柱根は残存長96cm、最大径21cm。
    第二号柱根は残存長140cm、最大径24cm。
    第三号柱根は残存長170cm、最大径25cmです。
    鑑定で、日本に自柱する樹木のなかで最も重くて硬い木の一つイスノキということがわかっています。
    この3本の柱根は、城壁の建造に使われたと考えられており、おつぼ山における古代山城に関する唯一の資料とし貴重です。

    柱穴と柱根 その断面図

2012年、 武雄市重要文化財に指定されました。

時代的には古墳時代の史跡です。

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史跡 おつぼ山神龍石 第二水門

おつぼ山神籠石 第二水門

  • 古代山城の特徴と水門

     朝鮮半島の山城をモデルに造られた古代山城は、山などを巡る厚い城壁によって敵の侵入を防ぎ、城内を守る造りになっています。 城壁によって囲まれているため、城内に雨が降ると水が溜まってしまいます。 水浸しにならないよう、城外に排出し、施設を維持していくうえで、重要な役割を果たすのが「水門」です。
     土木の世界では水対策が非常に重要で、どんな頑丈な構造物も排水がうまくできなければ壊れてしまいます。
    古代山城の水門は、石積における排水口の位置で、3つに分類されます。
     おつぼ山神籠石の水門は、日本列島で最も多い、石積の最下部にあるものに分類されます。 対して朝鮮半島の山城に多いのは石積の下部~中部にあるもので、おつぼ山のような地面近くに設けられた排水口は百済地域に多いことが指摘されています。他に極めて数が少なイプとして、石積上部~最上部に設けられたものがあります。

  • 第二水門の見どころ

     おつぼ山の西側で見つかった水門は、 「第二水門」と呼ばれています。
    第二水門は、第一水門より狭くて急な谷部に築かれています。建造するにあたっては安定した基礎を築き、ブロック状に加工した石を設置し積み上げています。 同じ幅の石材重箱のように積み上げている箇所や、石材同士のすわりをよくするため、石材の角を窪ませた(飲み込みる)加工が特徴的です。
    また水門を上から見た平面形は、山側にカーブを描いており、黒部ダムのようなアーチ型をしています。

 ショベルカーも、コンクリートもない時代に築かれた施設ですが、 約1300年以上たっても現地に残っている事実が、高い技術でつくられた土木構造物であることを証明しています。

 

時代的には古墳時代の史跡です。

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