南楢崎の古墳群と南楢崎遺跡について、下記目次に沿って少し詳しく解説します。
目次

図1 橘南部の古墳分布
1節 遺跡の位置と全体配置
(1)位置と他の遺跡との位置関係
(2)関係する事業と調査報告書
㊽-1 楢崎北遺跡
㊽-2 薬師山古墳
㊽-3 権現山古墳群
㊽-3 南楢崎遺跡
㊾-1 南楢崎古墳
㊾-2 楢崎南遺跡(旧楢崎北遺跡)
⑦ 玉島古墳
ここをクリックして記事を開きます
1節 遺跡の位置と全体配置
(1)位置と他の遺跡との位置関係

南楢崎地区の古墳と遺跡は、図1 橘南部の古墳分布のように地区内に密集しており、遺跡名称も紛らわしくなっていますので、表1にリストを作成しました。(図1 橘南部の古墳分布、表1南楢崎区の遺跡 PDF)この地区の遺跡は7カ所あります。所在地は玉島古墳を除いていずれも橘町大字大日字楢崎になります。
㊽-1 楢崎北遺跡
㊽-2 薬師山古墳
㊽-3 権現山古墳群
㊽-3 南楢崎遺跡
㊾-1 南楢崎古墳
㊾-2 楢崎南遺跡(旧楢崎北遺跡)
⑦ 玉島古墳
(2)関係する事業と調査報告書
この一帯は、調査が殆どなされていません。古墳と遺跡が重なるように並んでいますので、北から順に解説します。
㊽-1 楢崎北遺跡
養鶏場がある場所です。写真① 草場橋から薬師山古墳では、草場橋のつきあたりにドウザマ墓地と呼ばれる墓地があり、その南(写真では右)に、養鶏場のある楢崎北遺跡と薬師山古墳が写っています。 ここに関する資料を見つけることはできませんでした。
㊽-2 薬師山古墳
『郷土誌 橘町史跡めぐり』の236pに薬師山の仏様について書かれています。「中腹に墓地がありその上にお堂が祀られている」と書かれていますが、それ以上の資料がありません。写真② 薬師山古墳南面と写真③ 薬師山古墳の薬師社を掲載します。

写真② 薬師山古墳南面

写真③ 薬師山古墳の薬師社

南楢崎遺跡
同上の郷土誌237pに権現山の事が書かれています。「中腹に白山大権現が祀られている。境内の石檀上に石祠があり云々」とあり、今は個人で祀られているとのことです。山の西側部分(旧県道に面した部分)が南楢崎遺跡になります。写真④ 天神橋から権現山古墳群と南楢崎遺跡を参照ください。写真奥の森の左半分が権現山古墳群、右半分が南楢崎遺跡になります。
同じく232pに「権現山遺跡」の事が書かれています。「この山南部の民家裏から弥生甕棺が出土。県道拡幅時に甕棺墓2基と石棺墓1基が出土した(中山悟氏談)」「古墳群がありミカン園造成で殆どが破壊されたが、線刻模様があった」とも記載されています。
佐賀県文化財13の報告に書かれた「南楢崎石棺遺跡」とされる遺跡は、記載内容から権現山古墳群のことと思われます。「杵島山の山麓、標高50m余りの台地にあって、里道によって生じた切通しの西側にある。縦1.85m、 横 30㎝~43㎝、深さ30㎝余りの箱式石棺。武雄市立橘小学校に移転し、復原して保存されている。箱式石棺で粘土床となっているが、一端に届平な枕石が設けられている。側壁が板石の二重囲いになっているという点に特色があり、その側石聞には粘土が充填してあった。また、石棺の半分に鉄丹が塗布されており、副葬品はなかった」と報告されています。
㊽-4 南楢崎遺跡
同じく232pに「東県道の東側」と書かれているので、南楢崎遺跡のことになります。これには「この山の赤褐色のローム層から黒曜石の剥片・石核など数点が出土している。この剥片痕検査から、この遺物は先土器時代後期のものか縄文時代初期(約1万年以上前)のものと推定されている(今、この遺物の所在は不明)」と書かれています。
㊾-1 南楢崎古墳
現地は、民家が建っています(写真⑤ 南楢崎古墳参照)。資料を見つけることができませんでした。
写真⑤ 南楢崎古墳
㊾-2 楢崎南遺跡(旧楢崎北遺跡)
南楢崎と塩田を区画する尾根になります。中腹の写真を写真⑥ 南楢崎遺跡として添付します。
湯か里代31号(1970)に國平健三氏が昭和43年(1968)に実施した南楢崎丘陵面の調査記録が掲載されています。これには「楢崎バス停の北方200mの所」「南楢崎地区の丘陵舌部の墓地」とありますので、「楢崎南遺跡」(遺跡名が紛らわしいのでご注意ください)だと思われます。
旧石器から縄文に関係する資料なので紹介しておきます。これには「採取品25点のうち、黒曜石製の剥片2点と石核1点を図入り(図2 湯か里31号南楢崎遺跡旧石器参照)で紹介されています。
写真⑥ 楢崎南遺跡
図2 湯か里31号-1 南楢崎遺跡旧石器
⑦ 玉島古墳
別稿で解説します。