南楢崎の玉島古墳について、下記目次に沿って少し詳しく解説します。

玉島古墳(背景は潮見山)
目次
1節 遺跡の位置と全体配置
(1)位置と他の遺跡との位置関係
(2)関係する事業と調査報告書
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玉島古墳
1節 遺跡の位置と全体配置
(1)位置と他の遺跡との位置関係
玉島古墳は、武雄市橘町大字大日(南楢崎区)にあります。三方は水田に囲まれており、県道武雄・鹿島線の北側になります。玉島古墳(0517)の周囲には、南側には上野古墳群(0512)、北の潮見山の麓には潮見古墳(0333)や潮見古墳群、東の杵島山山麓には権現山古墳群(0383)など、たくさんの古墳に囲まれています。玉島古墳の周辺にある古墳分布図を参照ください
(図1 武雄市古墳遺跡図:黄緑着色部分)
①「玉島古墳」 (木下之治)
武雄市教育委員会(1973)
(2)関係する事業と調査報告書
玉島古墳は、神籠石との関連を調べるために発掘調査されました。調査後は、原形に復して古墳公園として保存し、一般に公開することとなりました。調査は、県立博物館学芸課長 木下之治氏です。
調査報告
- 所在地、地理的立地等は割愛
- 古墳概観
この古墳は、昭和45年の発掘調査で南北の径48m、東西の径42m、高さ9mの規模で、県下でも最大級の円墳であることが確認されました。
(図2玉島墳丘断面イメージ図参照)- 標高288mの虚空蔵山の西北麓の丘尾が平地に没する先端部の小段丘を修飾加工。
- 円墳の大きさは、県内ではほとんど他に類例を見ない大円墳
- 立地条件も県内ではほとんど例を見ないもので、3方を水田に囲まれ、西側のみが低い段丘となって丘陵に接しているので、低段丘の部分が一見前方部に見える。
- 周囲の水田は、牟田と呼ばれる深田と言われており、低丘陵に接する西側の下層は、黒褐色を呈する泥炭状の深い地層となっている。周壕の可能性がある。
- 墳丘及び墳丘周囲の地層中から相当多くの土師器片が出土。これらは同一時代のもので、墳丘周囲に混入していた土器片とともに墳丘上に運ばれた可能性が考えられる。
- 風土の大半は自然の地山で、人工的に盛土されている部分は、墳頂から2段目まで。
- 封土上には葺石が設けられていた痕跡をとどめており、円筒埴輪や象形埴輪の破片が出土。(少数)
- 石室
横穴式だが奥行0.9m。初期段階のもの。石室観察は計測記録とともに詳しい。
(図3玉島古墳石室イメージ図参照)
石室について武雄市の文化財「玉島古墳」より抜粋いたします。
ここから———————————
遺体を安置する石室は、竪穴系横口式石室とよばれ、竪穴式石室から横穴式石室に移行する時代のもので、羨道部が未発達なところが特徴です。
石室は南西方向に開口するもので、両袖単室であり、玄室の平面形は奥がやや広くなった羽子板形をしています。玄室は規模が、長さ3.25m、奥壁側の幅2.1m、玄門側の幅1.43mで、側壁には大きな腰石の上に扁平な石を小口積みしています。
奥壁に平行して遺体を安置する屍床が設けられており、玄室へ通じる羨道は短く、長さ0.9mにすぎません。
床面は玄室の方が羨道部より0.53m低くなっています。
ここまで———————————
- 出土遺物
- 盗掘済(相当古い時代)
- 床面から40cmに重葬者。重層に伴う副葬品は中世
- 第1期の副葬品
- 鏡(縫製変形紋鏡1 径7.3cm)
- 有孔斧形石製品1
- 碧玉製管玉2
- ガラス製小玉8
- 釧型鉄製品1
- 鉄刀1
- 鉄刀子3
- 鉄鉾1
- 鉄鏃33
- 短甲片3cmの破片が多数
- 槍鉋8
- 不明鉄器
- 重層に伴うもの
- 土師器系土器3
- 硬貨12
開元通宝 照寧元宝、等
永楽通宝がないので鎌倉から室町前期まで
- 封土から
- 埴輪片5個体分
- 石器
- 石槨3(サヌカイド2、黒曜石1)
- 黒曜石剥離片1
- 黒曜石ブレイド1
- 黒曜石剝離片32
- 土師器系土器片1426(大部分は古墳時代)

図4 玉島副葬品
(図4玉島副葬品参照)
2節 報告書の中の考察
- 横穴式石室墳の初現的なものとして注目される
- 土師器片が5世紀後半まで遡るか疑問の余地があり、副葬品の管玉はきわめて古い形式である反面、鏡が小型で文様が崩れているうえに相当手慣れの跡をとどめている点から、6世紀初頭と推定する。
- 杵島山を中心として杵島郡・武雄市地方に分布している古墳の中では、築成年代が最も古い
- 弥生時代には杵島山の東北麓、北方町椛島山を中心とする一帯が杵島地方の政治・文化の中心であったことが、弥生時代遺跡や遺物から推定される。
- 弥生時代における武雄盆地は杵島文化圏の中心から離れた周辺部に位置していた
- 武雄盆地は弥生時代には恐らく盆地の大半は沼沢状を呈していたと考えられる。
- 武雄盆地に水田が開かれたのは、弥生時代にさかのぼることは言うまでもないが、水害を防ぐに便利な山麓地帯の一部分が開発されて、いくらかの小集落が形成されていたことは、弥生時代の遺跡の分布から推定される。
- しかし杵島地方の政治・文化の中心地は弥生時代から古墳時代、さらに歴史時代に入ってもなお杵島山の東北圏に当たる北方町椛島山付近にあったことは、肥前風土記に「郡西に温泉ありて出づ。」と誌されていることによっても明らかである。
- 要するに武雄盆地は。古墳時代に入ってもなお、杵島政治圏の周辺に位置する一つの文化圏としての地位に置かれていたことが推定される。
3節 補足:宮下
玉島古墳が調査されたころは、まだ武雄盆地での発掘調査はほとんど手つかずのままでした。ですから論調は武雄盆地の弥生遺跡の少なさと杵島山麓での古墳群の多さがベースとなって組み立てられています。また、田地の開発は、農工具の発達と土木技術の開発に伴うとすることも述べられています。
その後、潮見川流域では河川拡幅や圃場整備、高速道事業などに伴って、多くの調査が行われて武雄盆地の知見が飛躍的に増えました。また農工具は、小城の土生遺跡でもわかるように殆ど変化していないことも分かってきました。その結果、潮見山の麓でも「杵島政治圏の周辺に位置する小集落」ではないことが判ってきました。