遺跡 立岩遺跡・北楢崎古墳群

北楢崎の立石遺跡及び北楢崎古墳群について、下記目次に沿って少し詳しく解説します。
なお、北楢崎古墳群の中央に位置する草場遺跡については別稿で紹介いたします。

目次

1節 遺跡の位置と全体配置

(1)位置と他の遺跡との位置関係

(2)関連する事業と調査報告書

参照:㊼ 草場遺跡(詳細解説)

 時代的には旧石器時代と古墳時代の遺跡です。

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立石遺跡・北楢崎古墳群のまとめ

1節 遺跡の位置と全体配置

(1)位置と他の遺跡との位置関係

図1 おつぼ山周辺遺跡地図

図1 おつぼ山周辺遺跡地図

これらの遺跡は以下の場所にあります

㊺立岩遺跡 武雄市橘町大字片白字片白
㊻北楢崎古墳群 同町 大字大日字草場

図1 おつぼ山周辺遺跡地図参照

(2)関係する事業と調査報告書

立岩遺跡

 立岩遺跡は、おつぼ山神籠石の石材を伐りだした場所とされます。かっては橘平野からも凝灰岩の露頭が見えていましたが、現在は樹林の影になって見えません。石材は、ここから谷筋へ落として草場峠の方へ転がしていたと考えられています。

杵島山林道の整備に伴って、露頭の近くが調査されました。
報告書(1998佐賀県圃場整備報告書16)には

  • 近くに角閃安山岩質凝灰角礫岩の大露頭である立岩が存在。試掘した地点は臣岩がオーバーハングした所であり.旧石器時代、縄文時代の岩陰遺跡の可能性があった
  • 調査は、岩陰部を対象に巨岩の露頭した下部に 0.5m×4m のトレンチを1箇所設定し、人力にて遺構等の有無を確認
  •  旧石器~縄文時代の遺構・遺物は確認されなかった。当該地はおつぼ山神籠石の石材の採集加工地と推定されている地区であるが、露頭している岩石は風化して おり、剥離痕は確認されず
  •  平安時代末期の遺物が5点出土し、巨岩を対象とする信仰遺跡の存在が確認できた

と書かれています。
また報告書(2001佐賀県基盤整備文化財調査19)には

  • 現地踏在のみであるが、武雄市広域林道杵島山線では標高約160mの山中で安山岩露頭に刻まれた石割に伴う矢穴を確認しており、近接して斜面上に石垣を構築して平坦面を造成した遺構が確認されている。また矢穴を刻んだ石 ・露頭は周辺部にも散在しており、かっては石切り場であったと推定される。時期についての手掛りはないが、近世以降、戦前までの時期幅と推定され、農林部と協蹟の上、矢穴を持つ岩の移設、石垣ララインの記録保存等で対応している

 と書かれています。

写真①草場橋から草場遺跡(集落)と後背地の北楢崎古墳群

北楢崎古墳群

写真①及び写真②はおつぼ山神籠石の入り口にある草場橋から草場遺跡(北楢崎集落内)と後背地に広がる北楢崎古墳群を遠望したものです。北楢崎古墳群は、草場遺跡をぐるっと取り囲む範囲になります(図1)。
佐賀県の文化財13では楢崎古墳(位置:北楢崎)が記録され「封土の径10m、高さ3mの円墳である。内部主体は副室を有する竪穴式石室であって、側壁は持送って穹降状に築かれている。早くから開口していたらしく、副葬品は何も保容されていない。」(佐賀県の文化財13)とあります。
この文面から見ますと薬師古墳を記録したものかもしれませんが、北楢崎として記録されているので、この稿でも紹介しておきます。

 湯か里17号(昭和31年)に武雄市歴史研究会メンバーで北楢崎古墳群を調査した記録が掲載されています。これによると「土器の出土した古墳の付近に5基以上の円墳があり、ほとんど全部が盗掘されていた。古墳は全て横穴式。出土土器はハゾウと言われる口の細い壺と杯」と書かれています。

写真② 草場遺跡(左側代地)と北楢崎古墳群(右の尾根と背後の山)

写真② 草場遺跡(左側代地)と北楢崎古墳群(右の尾根と背後の山)

写真③草場峠古代官道脇の古墳跡

 現地には、所々に古墳の遺構が残っていて、草場峠から集落へ下って来た左手の塚(写真③草場峠古代官道脇の古墳跡参照)があります。さらに下っていくと、左手に元橘町歴史研究会会長の市丸さん方の裏手にも古墳があるそうです(写真④市丸氏方裏の古墳参照 左の林が古墳)。

 この古墳については、『郷土史橘町史跡めぐり』の北楢崎の項(225P)に「観音塚」として書かれた所だと思います。「市丸氏宅の裏の林の中に観音塚がある。元そこには二体の観音さんがお祭りされていたが(中略)以前観音塚を掘られたら、さびた鉄の直刀が一振り出土したと言う。塚は多分昔の墓で(中略)観音さんを祀った境内との考えもある」と書かれています。

この塚は、境内ではなく間違いなく古墳でしょう。

写真④ 市丸氏方裏の古墳

古墳群。 県Map81、古墳16ほか(遺跡β)

 

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遺跡 ⑬ 玉島古墳

 県下最大の円墳で(東西42m 南北18m 高さ8m)6世紀初めの頃の築造とされます。竪穴から横穴式に変わる頃の古墳で、青銅鏡、碧玉製勾玉、ガラス玉などが多数出土しています。

 橘平野を統治していた領主の墓と考えられ、武雄全体の地位が平野南部に移っていたと考えられています。

玉島古墳(背景は潮見山)

参照:橘町の見どころ 歴史シリーズ ③

 時代的には古墳時代後期にあたります。

南楢崎の玉島古墳について、下記目次に沿って少し詳しく解説します。

目次

1節 遺跡の位置と全体配置
 (1)位置と他の遺跡との位置関係
 (2)関係する事業と調査報告書

2節 報告書の中の考察

3節 補足:宮下

4節 写真集

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玉島古墳

1節 遺跡の位置と全体配置

(1)位置と他の遺跡との位置関係図1 橘南部の古墳分布

 玉島古墳は、武雄市橘町大字大日(南楢崎区)にあります。三方は水田に囲まれており、県道武雄・鹿島線の北側になります。玉島古墳(0517)の周囲には、南側には上野古墳群(0512)、北の潮見山の麓には潮見古墳(0333)や潮見古墳群、東の杵島山山麓には権現山古墳群(0383)など、たくさんの古墳に囲まれています。玉島古墳の周辺にある古墳分布図を参照ください
図1 武雄市古墳遺跡図:黄緑着色部分)

 ①「玉島古墳」 (木下之治) 
   武雄市教育委員会(1973)

(2)関係する事業と調査報告書

 玉島古墳は、神籠石との関連を調べるために発掘調査されました。調査後は、原形に復して古墳公園として保存し、一般に公開することとなりました。調査は、県立博物館学芸課長 木下之治氏です。

 調査報告

  1. 所在地、地理的立地等は割愛

  2. 古墳概観
    図2 玉島墳丘断面イメージ図 この古墳は、昭和45年の発掘調査で南北の径48m、東西の径42m、高さ9mの規模で、県下でも最大級の円墳であることが確認されました。
    図2玉島墳丘断面イメージ図参照
    • 標高288mの虚空蔵山の西北麓の丘尾が平地に没する先端部の小段丘を修飾加工。
    • 円墳の大きさは、県内ではほとんど他に類例を見ない大円墳
    • 立地条件も県内ではほとんど例を見ないもので、3方を水田に囲まれ、西側のみが低い段丘となって丘陵に接しているので、低段丘の部分が一見前方部に見える。
    • 周囲の水田は、牟田と呼ばれる深田と言われており、低丘陵に接する西側の下層は、黒褐色を呈する泥炭状の深い地層となっている。周壕の可能性がある。
    • 墳丘及び墳丘周囲の地層中から相当多くの土師器片が出土。これらは同一時代のもので、墳丘周囲に混入していた土器片とともに墳丘上に運ばれた可能性が考えられる。
    • 風土の大半は自然の地山で、人工的に盛土されている部分は、墳頂から2段目まで。
    • 封土上には葺石が設けられていた痕跡をとどめており、円筒埴輪や象形埴輪の破片が出土。(少数)
  3. 石室図3 玉島古墳石室イメージ
    横穴式だが奥行0.9m。初期段階のもの。石室観察は計測記録とともに詳しい。
    図3玉島古墳石室イメージ図参照

    石室について武雄市の文化財「玉島古墳」より抜粋いたします。

    ここから———————————
     遺体を安置する石室は、竪穴系横口式石室とよばれ、竪穴式石室から横穴式石室に移行する時代のもので、羨道部が未発達なところが特徴です。
     石室は南西方向に開口するもので、両袖単室であり、玄室の平面形は奥がやや広くなった羽子板形をしています。玄室は規模が、長さ3.25m、奥壁側の幅2.1m、玄門側の幅1.43mで、側壁には大きな腰石の上に扁平な石を小口積みしています。
     奥壁に平行して遺体を安置する屍床が設けられており、玄室へ通じる羨道は短く、長さ0.9mにすぎません。
     床面は玄室の方が羨道部より0.53m低くなっています。
    ここまで———————————

  4. 出土遺物
    • 盗掘済(相当古い時代)
    • 床面から40cmに重葬者。重層に伴う副葬品は中世
    • 第1期の副葬品
      • 鏡(縫製変形紋鏡1 径7.3cm)
      • 有孔斧形石製品1
      • 碧玉製管玉2
      • ガラス製小玉8
      • 釧型鉄製品1
      • 鉄刀1
      • 鉄刀子3
      • 鉄鉾1
      • 鉄鏃33
      • 短甲片3cmの破片が多数
      • 槍鉋8
      • 不明鉄器
    • 重層に伴うもの
      • 土師器系土器3
      • 硬貨12
        開元通宝 照寧元宝、等
        永楽通宝がないので鎌倉から室町前期まで
    • 封土から
      • 埴輪片5個体分
      • 石器
        • 石槨3(サヌカイド2、黒曜石1)
        • 黒曜石剥離片1
        • 黒曜石ブレイド1
        • 黒曜石剝離片32
        • 土師器系土器片1426(大部分は古墳時代)
図4 玉島副葬品

図4 玉島副葬品

   (図4玉島副葬品参照

2節 報告書の中の考察

  • 横穴式石室墳の初現的なものとして注目される
  • 土師器片が5世紀後半まで遡るか疑問の余地があり、副葬品の管玉はきわめて古い形式である反面、鏡が小型で文様が崩れているうえに相当手慣れの跡をとどめている点から、6世紀初頭と推定する。
  • 杵島山を中心として杵島郡・武雄市地方に分布している古墳の中では、築成年代が最も古い
  • 弥生時代には杵島山の東北麓、北方町椛島山を中心とする一帯が杵島地方の政治・文化の中心であったことが、弥生時代遺跡や遺物から推定される。
  • 弥生時代における武雄盆地は杵島文化圏の中心から離れた周辺部に位置していた
  • 武雄盆地は弥生時代には恐らく盆地の大半は沼沢状を呈していたと考えられる。
  • 武雄盆地に水田が開かれたのは、弥生時代にさかのぼることは言うまでもないが、水害を防ぐに便利な山麓地帯の一部分が開発されて、いくらかの小集落が形成されていたことは、弥生時代の遺跡の分布から推定される。
  • しかし杵島地方の政治・文化の中心地は弥生時代から古墳時代、さらに歴史時代に入ってもなお杵島山の東北圏に当たる北方町椛島山付近にあったことは、肥前風土記に「郡西に温泉ありて出づ。」と誌されていることによっても明らかである。
  • 要するに武雄盆地は。古墳時代に入ってもなお、杵島政治圏の周辺に位置する一つの文化圏としての地位に置かれていたことが推定される。

3節 補足:宮下

 玉島古墳が調査されたころは、まだ武雄盆地での発掘調査はほとんど手つかずのままでした。ですから論調は武雄盆地の弥生遺跡の少なさと杵島山麓での古墳群の多さがベースとなって組み立てられています。また、田地の開発は、農工具の発達と土木技術の開発に伴うとすることも述べられています。

 その後、潮見川流域では河川拡幅や圃場整備、高速道事業などに伴って、多くの調査が行われて武雄盆地の知見が飛躍的に増えました。また農工具は、小城の土生遺跡でもわかるように殆ど変化していないことも分かってきました。その結果、潮見山の麓でも「杵島政治圏の周辺に位置する小集落」ではないことが判ってきました。

4節 写真集

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㊽㊾ 南楢崎の古墳群と南楢崎遺跡

南楢崎の古墳群と南楢崎遺跡について、下記目次に沿って少し詳しく解説します。

  目次

1節 遺跡の位置と全体配置
(1)位置と他の遺跡との位置関係
(2)関係する事業と調査報告書
  ㊽-1 楢崎北遺遺跡 (0432)
  ㊽-2 薬師山古墳 (0381)
  ㊽-3 権現山古墳群 (0383)
  ㊽-3 南楢崎遺跡(0382)
  ㊾-1 南楢崎古墳(0433)
  ㊾-2 楢崎南遺跡(0518)
  ⑦   玉島古墳(0517)

 時代的には旧石器時代及び古墳時代の遺跡です。

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1節 遺跡の位置と全体配置

(1)位置と他の遺跡との位置関係

図1 橘南部の古墳分布 南楢崎地区の古墳と遺跡は、図1 橘南部の古墳分布のように地区内に密集しており、遺跡名称も紛らわしくなっていますので、表1にリストを作成しました。
表1 南楢崎区の遺跡一覧表  PDF

この地区の遺跡は7カ所あります。所在地は玉島古墳を除いていずれも橘町大字大日字楢崎になります。

  ㊽-1 楢崎北遺跡
  ㊽-2 薬師山古墳
  ㊽-3 権現山古墳群
  ㊽-3 南楢崎遺跡
  ㊾-1 南楢崎古墳
  ㊾-2 楢崎南遺跡(旧楢崎北遺跡)
  ⑦   玉島古墳 別稿へリンク

(2)関係する事業と調査報告書

 この一帯は、調査が殆どなされていません。古墳と遺跡が重なるように並んでいますので、北から順に解説します。

㊽-1 楢崎北遺跡(0432)

写真① 草場橋から薬師古墳方面

写真① 草場橋から薬師古墳方面

 養鶏場がある場所です。写真① 草場橋から薬師山古墳では、草場橋のつきあたりにドウザマ墓地と呼ばれる墓地があり、その南(写真では右)に、養鶏場のある楢崎北遺跡と薬師山古墳が写っています。 ここに関する資料を見つけることはできませんでした。

㊽-2 薬師山古墳(0381)
 『郷土誌 橘町史跡めぐり』の236pに薬師山の仏様について書かれています。「中腹に墓地がありその上にお堂が祀られている」と書かれていますが、それ以上の資料がありません。写真② 薬師山古墳南面写真③  薬師山古墳の薬師社を掲載します。

写真② 薬師山古墳南面

写真② 薬師山古墳南面

写真③ 薬師山古墳の薬師社

写真③ 薬師山古墳の薬師社

㊽-3 権現山古墳群(0383)
 同上の郷土誌237pに権現山の事が書かれています。「中腹に白山大権現が祀られている。境内の石檀上に石祠があり云々」とあり、今は個人で祀られているとのことです。山の西側部分(旧県道に面した部分)が南楢崎遺跡になります。写真④  天神橋から権現山古墳群と南楢崎遺跡を参照ください。写真奥の森の左半分が権現山古墳群、右半分が南楢崎遺跡になります。
 同じく232pに「権現山遺跡」の事が書かれています。「この山南部の民家裏から弥生甕棺が出土。県道拡幅時に甕棺墓2基と石棺墓1基が出土した(中山悟氏談)」「古墳群がありミカン園造成で殆どが破壊されたが、線刻模様があった」とも記載されています。

 佐賀県文化財13の報告に書かれた「南楢崎石棺遺跡」とされる遺跡は、記載内容から権現山古墳群のことと思われます。「杵島山の山麓、標高50m余りの台地にあって、里道によって生じた切通しの西側にある。縦1.85m、 横 30㎝~43㎝、深さ30㎝余りの箱式石棺。武雄市立橘小学校に移転し、復原して保存されている。箱式石棺で粘土床となっているが、一端に届平な枕石が設けられている。側壁が板石の二重囲いになっているという点に特色があり、その側石聞には粘土が充填してあった。また、石棺の半分に鉄丹が塗布されており、副葬品はなかった」と報告されています。

㊽-4 南楢崎遺跡(0382)
 同じく232pに「東県道の東側」と書かれているので、南楢崎遺跡のことになります。
これには「この山の赤褐色のローム層から黒曜石の剥片・石核など数点が出土している。この剥片痕検査から、この遺物は先土器時代後期のものか縄文時代初期(約1万年以上前)のものと推定されている(今、この遺物の所在は不明)」と書かれています。

㊾-1 南楢崎古墳(0433)
 現地は、民家が建っています(写真⑤ 南楢崎古墳参照)。資料を見つけることができませんでした。

写真⑤ 南楢崎古墳

写真⑤ 南楢崎古墳

㊾-2 楢崎南遺跡(旧楢崎北遺跡)(0518 )
 南楢崎と塩田を区画する尾根になります。中腹の写真を写真⑥  南楢崎遺跡として添付します。
湯か里代31号(1970)に國平健三氏が昭和43年(1968)に実施した南楢崎丘陵面の調査記録が掲載されています。これには「楢崎バス停の北方200mの所」「南楢崎地区の丘陵舌部の墓地」とありますので、「楢崎南遺跡」(遺跡名が紛らわしいのでご注意ください)だと思われます。
旧石器から縄文に関係する資料なので紹介しておきます。これには「採取品25点のうち、黒曜石製の剥片2点と石核1点を図入り(図2 湯か里31号南楢崎遺跡旧石器参照)で紹介されています。

写真⑥ 楢崎南遺跡

写真⑥ 楢崎南遺跡

図2 湯か里31号-1 南楢崎遺跡旧石器

図2 湯か里31号-1南楢崎遺跡旧石器

⑦ 玉島古墳
 別稿で解説します。

参照:遺跡 ⑦ 玉島古墳(詳細解説)
参照:南楢崎区に関係する遺跡一覧表(PDF)

 

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遺跡⑤ 草場遺跡

 駒澤大学考古学研究会『先史6号』という本に、地元在住の國平健三が草場遺跡出土の旧石器時代の石器を紹介されています。「北楢崎地区では昭和38年から42年にかけミカン園が開墾され、造成によって安山岩製石器や黒曜石製石器が百数点出土したので整理し、草場遺跡と命名」とあります。

写真① 草場橋から草場遺跡(集落)と後背地の北楢崎古墳群

時代的には旧石器時代の遺跡と思われます。

草場遺跡について、下記目次に沿って少し詳しく解説します。

  目次

1節 草場遺跡の位置と全体配置
(1)位置と他の遺跡との位置関係
(2)関係する事業と調査報告書
(3)調査の経緯と遺構図

2節 検出遺構とその時期について
(1) 古墳

3節 出土遺物について
(1) 旧石器時代の遺物
(2)縄文時代の遺物
(3)時代言及がない遺物

4節 考察
(1) 草場遺跡の基本的性格
(2) 國平健三氏の考察
(3) 草場遺跡は旧石器時代から人々が暮らしやすい場所だった

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1節 草場遺跡の位置と全体配置

(1)位置と他の遺跡との位置関係

図1 おつぼ山周辺遺跡地図
図1 おつぼ山周辺遺跡地図

 草場遺跡は武雄市橘町大字大日字草場にあります(図1おつぼ山周辺遺跡地図参照)。写真① はおつぼ山神籠石の入り口にある草場橋から草場遺跡(北楢崎集落内)と後背地に広がる北楢崎古墳群を写したものです。草場遺跡は、おつぼ山神籠石の石材を取った立岩塊の下に広がる扇状地で、古代には、この近くまで海が入り込んでいたと考えられる場所です。

写真① 草場橋から草場遺跡(集落)と後背地の北楢崎古墳群
写真① 草場橋から草場遺跡(集落)と後背地の北楢崎古墳群

(2)関係する事業と調査報告書

 草場遺跡の調査には下記のものがあります。

  • 1次調査:國平健三氏による調査①(個人)
    昭和38年~42年にかけて、ミカン園造成によって出土した安山岩製
    石器や黒曜石製石器百数点を整理し、それらをまとめて投稿したもの
  • 2次調査:圃場整備事業に伴う確認調査②(武雄市教委)
  • 3次調査;宅地開発に伴う確認調査③(武雄市教委)

 また関連する史料にあげられるものは、武雄市史上巻(1972)があります。これを基に各種資料に旧石器時代の遺跡として記載されています。
 本レポートは、これらの経緯や近接するおつぼ山神籠石との関連を述べることとします。

① 『先史』6号 駒澤大学考古学研究会(1970)
② 『佐賀県基盤整備文化財調査9』佐賀県教育委員会(1991)
③ 『H3~11年度開発に伴う確認調査』H9 武雄市教育委員会(1997)

(3)調査の経緯と遺構図

 湯か里51号の草場遺跡の稿において、地元在住の「國平健三氏が草場遺跡を旧石器時代の遺跡として駒澤大学考古学研究会『先史』6号に投稿された」ことが紹介されています。
 そこで、この『先史』6号を調べてみますと、北楢崎地区では昭和38年から42年にかけてミカン園が開墾され、造成によって黄褐色ローム質層や赤褐色ローム質層から安山岩製石器や黒曜石製石器が百数点出土しました。これら表採遺物を國平健三氏が整理して「草場遺跡」と命名し、投稿したものでした。ですから武雄市史の草場遺跡に関する記事は、國平健三氏のレポートが基礎になっているものと考えられます。
 この投稿には遺構図に関係するものがありませんので、「遺跡と周辺の状況」の項から関係事項を抜粋し、箇条書きします。

  • 草場遺跡は橘町北楢崎88308番地に位置する丘陵面にある
  • 草場と呼称される丘陵地(長さ320m)が扇状に広がる
  • 地層や遺物の状況から扇状地を上部(A)標高23m、中間部(B)、舌部(C)標高10mの3段に分けられる
  • A部;20~30cmの腐植土の下に黄褐色ローム質層2m以上堆積
  • B部とC部;腐食土層の下に黄褐色ローム質層はなく、赤褐色ローム質層となる
  • 遺物は丘陵全域から出土
  • A部・B部・C部で、石器の形態・制作技法・材料が相違
  • 草場遺跡丘陵部とおつぼ山間には沖積面が深く入り込み、ここから阿高式縄文土器片や石器類(剥片石器・掻器・細長石匙・石鏃・石核)、須恵器・土師器が出土④
  • 近隣の旧石器遺跡として鬼の鼻山遺跡(安山岩石材)、多久三年山
  • 茶園原遺跡、南志田遺跡(黒曜石石材)中野遺跡・柏岳を掲載 
図2 盤棺墓周辺地形図
図2 盤棺墓周辺地形図

 2次調査は圃場整備にう調査です。報告書54pには「おつば山神籠石間連の遺構(水門等)の遺存も考えられるため、70箇所の試掘溝を設定したが、1筒所で小穴を確認し、1箇所から瓦片、染付片を検出したに留まった」と書かれています。おつぼ山神籠石南側が調査されたはずですが、試掘調査の範囲データがありません。草場遺跡を含む可能性があるので紹介しておきます。3次調査は宅地 開発に伴う調査(図2盤棺墓周辺地形図参照)です。
 これらの関係を図に示すには1次と2次の調査範囲が不明ですので位置関係を明らかにすることができません。そこで国土地理院の地形図に北楢崎地区の遺跡拡大図(図3)を重ね。圃場整備・各遺跡の関係を示した 図4 北楢崎の圃場整備 を作成しました。3次調査の場所は、正確には北楢崎古墳群の範囲と思われますが、この地域は旧石器時代の遺跡と古墳群が一体として重なっていますので草場遺跡として取り扱われたのかもしれません。

図3 おつぼ山周辺遺跡地図拡大図
図3 おつぼ山周辺遺跡地図拡大図
図4 北楢崎の圃場整備
図4 北楢崎の圃場整備

2節 検出遺構とその時期について

 2節・3節では主要部分を箇条書きします

(1) 古墳

写真② 草場遺跡盤棺墓
写真② 草場遺跡盤棺墓
  • 1次調査で「周囲に北楢崎古墳が存在する」「旧石器時代や縄文時代・弥生時代・古墳時代の遺跡が多く存在する」と記載
  • C部で半壊の古墳1基(この古墳からも石器を表採)
  • 3次で幼児用盤棺墓(岩盤をくりぬいて造られた墓)1基(写真②草場遺跡盤棺墓参照)副葬品なし(古墳時代5世紀前半頃)
  • 周辺試掘溝でもほかの遺構検出はなし

3節 出土遺物について

(1) 旧石器時代の遺物

  • A部
    最下層に安山岩製握槌状石器・スクレーバー類(図5 A部の旧 石器①)次にブレード(図6 A部の旧石器②N08)ドリル(図6A部の旧石器②N09)を含む層がその上に、さらにその上に縄文土器(図7 A部の旧石器③N080~89)が来ると想定している
  • B部
    フレーク・ドリル等はブレード技法によるもので他の石器の製作技法が異なる。黒曜石製石器しか出土しない。(図8B部の旧石器
  • C部
    材料は古境石と安山岩。制作技法はB部と同じものがある。石器が小型し、石器組成が多様化している(図9 C部の旧石器
図5 A部の旧石器①
図5 A部の旧石器①
図6 A部の旧石器②
図6 A部の旧石器②
図7 A部の旧石器③
図7 A部の旧石器③
図8 B部の旧石器
図8 B部の旧石器
図9 C部の旧石器
図9 C部の旧石器

(2)縄文時代の遺物

  • A部:第1次剥離面が新しいので7番コアや80以降の石器類(図7
  • B部:特に記載なし
  • C部:石匙や石鏃、サイドスクレーバー(図9 N051

(3)時代言及がない遺物

  • 土錘3点 須恵器片(杯)

4節 考察

(1) 草場遺跡の基本的性格

 草場遺跡は旧石器時代から人々が生活した場所です。

(2) 國平健三氏の考察

  • 旧石器の製作技法の分析から、草場丘陵に3段階の石器分布が考えられ、標高の高いA部が最も古く、表層に近い所が縄文期の石器、旧石器時代の石器を2段階に分けて想定されています。
  • 丘陵舌部(C部)が比較的新しい時代と想定。石器も小型化多様化していると考えられています。
  • 石器の材料(安山岩と黒曜石)は外部から持ち込まれたものと考えられ、安山岩は鬼の鼻山産、黒曜石は柏岳を想定。また、出土石器に認められる擦痕は人為的な石器の使用によるものとも想定されています。
  • ただし、出土物が表採の物なので、上記想定は制作技法に頼ったものであり、今後層位的な調査と分析が必要ともされています。

(3) 草場遺跡は旧石器時代から人々が暮らしやすい場所だった

 北楢崎・南楢崎・上野・潮見地区は、古代の海岸線に面した場所で、古代潮見川の河口があった場所になります。旧石器時代から人々はこの地域で暮らしていた場所ですので、圃場整備事業で遺構や遺物の検出が少なかったことは残念でした。
 「ドウザマ墓地」と呼ばれる墓地のある尾根から北楢崎集落がある範囲は、旧石器時代から古墳時代までの遺跡の宝庫だと考えられます。宅地開発が進んでいますが、開発にあたっては確実な調査がなされることを期待します。

 

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史跡③ おつぼ山第一経塚

 平安時代末期まっきになると、政治・社会の混乱が増し「末法思想まっぽうしそう」が広がりました。そんな時代背景の中で「ただ念仏ねんぶつとなえるだけで往生おうじょうがかなう」という浄土教じょうどきょうは大変魅力的で、人々に浄土思想じょうどしそうが広まりました。

 経塚きょうづかは、平安時代の人々がお願いごとをするために、経典きょうてんを埋めて祈ったものです。2つの経塚は、神籠石こうごいし調査の時に見つかりました。青銅製せいどうせい経筒きょうつつに金粉がってあったらしいと郷土史『ゆか里』に書かれています。

時代的には平安時代前期にあたります。

おつぼ山第1経塚の発見状況(佐賀県の経筒から)
おつぼ山第1経塚の経筒
おつぼ山第1経塚の経筒(佐賀県の経筒から)

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豆知識 末法思想(まっぽうしそう)

 末法思想(まっぽうしそう)とは、釈迦の死後、仏教の教えが衰え、悟りを得る人がいなくなる時代が到来するという仏教の歴史観です。正法、像法の時代を経て、最後には仏教の教えだけが形骸化して残り、人も世も乱れる「末法」の時代に入ると考えられました。日本では1052年(永承7年)から末法に入ると信じられ、その不安感から浄土教が広まりました。

時代の区分

 末法思想では、釈迦入滅後の時代を以下のように3つの期間に分けます。

  • 正法(しょうぼう)
    釈迦の教えと修行、そして悟りを得る人が存在する時代。
  • 像法(ぞうほう)
    釈迦の教えが形として残り、修行する人もいますが、悟りを得ることは難しい時代。
  • 末法(まっぽう)
    教えも修行も衰え、悟りを得る人がいなくなる、暗黒の時代。

日本の状況

  • 1052年の末法到来説
    日本では平安時代中期に、釈迦入滅後2000年が経過し、1052年が末法の時代に入るとする説が有力になりました。
  • 世の乱れ
    この時期は、天災や飢饉が相次ぎ、武士の台頭など世の中が混乱し、末法の時代に入ったという不安感を広めました。
  • 浄土教の流行
    末法では現世での救いが得られないと考えられたため、亡くなった後に極楽往生できることを願う浄土教が広く信じられるようになりました。

Google AIによる概要 より

豆知識 浄土思想(じょうどしそう)

 浄土思想とは、阿弥陀如来(あみだにょらい)の無限の慈悲によって、人々が死後に「極楽浄土(ごくらくじょうど)」という仏の国へ生まれ変わることを願う教えです。煩悩を抱えた人間がそのままでは悟りを開くことが難しいため、阿弥陀仏に救いを委ね、ひたすら「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と念仏を唱え、極楽浄土への往生を願うものです。この思想は法然(ほうねん)や親鸞(しんらん)らによって広まり、日本で広く民衆に受け入れられてきました。

浄土思想のポイント

  • 阿弥陀仏の救い
    浄土思想の中心は、阿弥陀仏の「他力本願(たりきほんがん)」の救いです。自分自身の力ではなく、阿弥陀仏の力によって救われると考えます。
  • 極楽浄土への往生
    念仏を唱え、阿弥陀仏の誓いを信じることで、この世の穢れた(けがれた)世界から離れ、阿弥陀仏が住む極楽浄土へ往生できると説いています。
  • 念仏
    最も特徴的な実践は「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えることです。この念仏を唱える行為が、極楽浄土へ往生するための重要な手段となります。
  • 時代背景
    仏教が盛んになるにつれて、特に鎌倉時代の世情不安の中で、民衆からの共感を得て広まりました。

歴史的発展

  • 中国での発展
    インドで誕生した浄土教は中国に伝わり、特に善導(ぜんどう)によって発展しました。
  • 日本への伝来と普及
    日本には奈良時代に伝来し、平安時代後期には「末法思想(まっぽうしそう)」と結びつき、貴族から庶民まで幅広く浸透しました。
  • 日本の宗派の確立
    法然が浄土宗、親鸞が浄土真宗、一遍(いっぺん)が時宗をそれぞれ開きました。これらの宗派は、共に阿弥陀仏の救いを信じ、極楽浄土への往生を願うという点で共通しています。

Google AIによる概要 より

豆知識 経塚(きょうづか)・経筒(きょうづつ)

「経塚」は、仏教の経典を「経筒」という容器に入れて地中に埋納した場所です。経筒は経典を湿気や風化から保護するための容器で、銅製が主ですが、陶製や石製などもあります。経塚は仏法の滅亡を意味する「末法思想」が広まった平安時代末期から鎌倉時代にかけて盛んになり、仏の教えを未来に伝えるための「タイムカプセル」のような役割を持っていたと考えられています。

経筒(きょうづつ)とは

  • 仏教経典を納めるための円筒形の容器です。
  • 耐久性のある材料で作られ、銅製が最も多いですが、鉄製、陶製、石製などもあります。
  • 上部にはつまみや宝珠形の蓋が付いていることが多く、経筒自体が仏塔を模した形をしています
  • 経筒には経塚造営の目的や、関係者の名前などが銘文として彫られていることもあり、当時の歴史を知る貴重な資料となります。

経塚(きょうづか)とは

  • 経筒をさらに石や陶器の容器に入れ、土中に埋めた場所、またはその塚のことです。
  • 平安時代末期に広まった末法思想(仏教の教えが衰退するという考え方)に基づき、将来に仏の教えを届けるという願いを込めて作られました。
  • 経筒以外にも、銅鏡、小刀、仏像、仏具、小型の容器、古銭などが副納品として一緒に埋められることもありました。
  • 経塚は、現代のタイムカプセルのように、未来の人々へ願いや教えを託すためのものでした

Google AIによる概要 より

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