2016-07-02 Sat
本町は武雄市の南部に位置し、六角川の上流潮見川流域を中心に、武雄市最大の水田が広がり、東西を低い山に囲まれた町である。
杵島山潮見川山麓一帯に点在する古墳群、潮見川の遺跡群に見られるように、橘町は弥生時代から開けた由緒あるところ所である。なかでも、玉島古墳、おつぼ神籠石、みやこ遺跡、釈迦寺遺跡等では、城郭、銅剣、銅鏡、住居、古い生活用具等が出土し、条理制の名残りをとどめるなど、当時の高い文化様式がしのばれる。
中世には、長崎街道の交通の要衝でもあり、長島庄を中心として栄えた橘氏の勢力からみても、古くから開けた町である。。
本町は農業を主産業とした純農村として栄えてきた町である。しかし、社会の変化と町の中央を横断する高速自動車の開通により、近代的な様相に一変してきた。近年整備が進み、機械化・省力化とともに養鶏・畜産・果樹を取り入れた農業の近代化が図られている。反面、勤めに出る家が増加する傾向にある。
町民は純朴で、殆どが古くからの土着で愛郷心が強く、校区住民は言うまでもなく、郷土を離れて活躍中の人々にも、郷土や学校に対する熱意と愛情により、物心両面からの支援・協力を惜しまない気風がある。
杵島山潮見川山麓一帯に点在する古墳群、潮見川の遺跡群に見られるように、橘町は弥生時代から開けた由緒あるところ所である。なかでも、玉島古墳、おつぼ神籠石、みやこ遺跡、釈迦寺遺跡等では、城郭、銅剣、銅鏡、住居、古い生活用具等が出土し、条理制の名残りをとどめるなど、当時の高い文化様式がしのばれる。
中世には、長崎街道の交通の要衝でもあり、長島庄を中心として栄えた橘氏の勢力からみても、古くから開けた町である。。
本町は農業を主産業とした純農村として栄えてきた町である。しかし、社会の変化と町の中央を横断する高速自動車の開通により、近代的な様相に一変してきた。近年整備が進み、機械化・省力化とともに養鶏・畜産・果樹を取り入れた農業の近代化が図られている。反面、勤めに出る家が増加する傾向にある。
町民は純朴で、殆どが古くからの土着で愛郷心が強く、校区住民は言うまでもなく、郷土を離れて活躍中の人々にも、郷土や学校に対する熱意と愛情により、物心両面からの支援・協力を惜しまない気風がある。